復活のキリスト

第一コリント人への手紙15章54-57節

ロビソン・デイヴィッド
2022年04月17日

第一コリント人への手紙15章54-57節
「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

 

 今日は、イースター礼拝です。イースターは、イエス・キリストの復活を思い、祝う時で、クリスチャンにとっては、一年のうちで最も喜ばしいお祝いです。今日は世界中のキリスト教会で、この素晴らしい出来事を一緒に祝っています。イエス様は、十字架で死んでからよみがえって、死に打ち勝ち、誰もが永遠の命を持つことができる道を開いてくださいました。イエス様が死からよみがえられたという事実は、私たちも、死んで終わりではないという希望を与えてくれます。今から少しの時間を使って、イエス様が死からよみがえられたことが、私たちにとってどのような意味を持つのか、考えてみたいと思います。

 クリスチャンが、イエス様の復活が実際に起こったと信じていることを知ると、驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。私もクリスチャンとして、イエス様の復活は本当に起こったことだと信じています。聖書の中に、イエス様の4人の弟子が書いた、イエス様の伝記のような書物があります。この4つの伝記はすべて、イエス様の復活を歴史的事実として紹介しています。

 それによると、イエス様は、当時のローマ帝国に対して反乱を起こしたという濡れ衣を着せられたとあります。その結果、イエス様はポンテオ・ピラトというローマの総督によって、十字架による死刑を宣告されたのです。イエス様は、手と足を木の十字架に釘付けにされ、死ぬまで吊るされました。十字架の上で死んだ後、兵士が槍で脇腹を刺して、死んだことを確認したそうです。遺体は、当時の慣習にしたがって、布を巻かれて洞窟のような墓に納められ、入り口は大きな岩で塞がれました。興味深いことは、聖書によると、誰かがイエス様の死体を盗むのを防ぐために、墓の入り口に兵士が配置されたそうです。

 実はイエス様は、殺される前に自分の死を預言し、3日後に甦ると弟子たちに言っていたのです。イエス様の死刑をたくらんだ人達は、もしかしたらイエス様の弟子たちがこっそり遺体を盗んで隠し、イエス様がよみがえったと言いふらすかもしれないと考えました。そこで彼らは、そうならないようにイエス様の墓に警備のために兵士を配置したのです。しかし、聖書の記述によると、3日後に天使が墓にやってきて、入り口をふさいでいた大きな岩を転がしたというのです。その天使の姿はとても恐ろしく、兵士たちは恐怖のあまり気絶してしまったと書いてあります。

 その後、イエス様に従っていた女性たちが墓を見に来ましたが、墓は空っぽでした。 聖書によると、その後イエス様は、その女性たちや弟子たち、さらに500人以上の人々に、復活した姿で現われたとあります。

 これは、普通に考えると信じられない話だと思います。確かに、普通ありえない話です。しかし、ほんの少し、もしこれが本当だったらどうなるかを考えてみてください。もし、イエス様が本当に生き返ったのだとしたら、どうでしょう。もし、イエス様の復活が単なる物語ではなく、歴史的事実であったとしたら、どうでしょうか。人が本当に死んで、そして生き返ったとしたら、どういうことになるでしょうか。

 もしそれが本当なら、歴史上最も重要な出来事となるはずです。人間として、私たちは死が自然の摂理であることを受け入れています。死は誰もが逃れられないものです。長寿を全うして亡くなる人もいますし、若いうちに亡くなる人もいます。私達は、今日生きていても、明日死ぬかもしれない存在です。私たち人間にとって、死は最終的なものであり、逃れることはできません。私たちが直面するあらゆる問題や困難の中で、死そのものほど恐ろしいものはないと思います。科学と医学がどんなに進歩しても、死だけは解決できない問題です。しかし、もしイエス様が死に打ち勝ったとしたらどうでしょう。もし、イエス様が死よりも大きな力を持っておられたら, どうでしょうか?もし、イエス様が死からよみがえられたとしたら、どうでしょうか。

 聖書に記録されているイエス様のたくさんの言葉は、真実です。イエス様はたくさんのすばらしいことを言われました。

たとえば、
ヨハネの福音書3章16~17節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

また、こうも言われました。
ヨハネの福音書10章10節
「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」

そして、
ヨハネの福音書6章39-40節
「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

 

 もしイエス様が死からよみがえったのなら、私たちも死んだ後よみがえることができます。私たちは死を恐れなくてよくなるのです。

 

 先ほど読んだ、第一コリント15章54-57節にはこうあります。
「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

  これは、イエス様を信じ、イエス様に従おうとする人に与えられる、希望と約束です。

 しかし、イエス様が死からよみがえったという聖書の記録を信じる理由はどこにあるのでしょうか。

 聖書は昔から多くの学者によって研究されてきました。その中で歴史家たちは、イエス様の死に関する聖書の記述の多くが、歴史的に正確であることを証明しています。イエス・キリストが実在し、奇跡を起こすことができると主張した、非常に影響力のある人物であった、ということに異議を唱える人はほとんどいません。そして、イエス様の信者の多くが、イエス様が奇跡を行うのを目撃したと主張したこと自体は記録されています。また、イエス様に死刑を宣告した、ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトについても、多くのことが知られています。そして、驚くべきことに、ほとんどの歴史家は、イエス様の墓が、彼が死んだ3日後に空であることが発見されたことにも同意しているのです。イエス様の遺体がどこにいってしまったのか、なぜ墓が空だったのかについては、歴史家の間でも意見が分かれていますが、イエスの遺体が消えたこと自体は、広く歴史的事実と見なされているのです。

 歴史的な観点から見ると、なぜキリスト教が突然始まり、すごい勢いで広まったのか、それ以外に説明がありません。もしイエス様が死んで遺体の場所も分かっていたら、誰もイエス様の信者たちの主張を信じなかったからです。

 キリスト教は、実は非常に変わった始まり方をしました。キリスト教が急に広まったのは、ローマ帝国に支配されていた時代の、現代で言うと中東のイスラエルでした。最初のキリスト教徒たちは、教育を受けていない労働階級の人々でした。イエス・キリスト自身、貧しい大工の息子で、小さな町で育ち、正式な教育を受けていなかったと言われています。イエス様の最初の弟子になったのは漁師たちで、彼らも同様に教育を受けていませんでした。しかし、このような学歴も地位もない人々の集団が、ローマ帝国全体をひっくり返すような運動を起こしたのです。ごく短い期間に、何千人もの人々が、彼らが宣べ伝えたメッセージを信じるようになりました。何千人もの人々が、イエス・キリストが死からよみがえったことを信じるようになったのです。

 イエス様の敵であったユダヤ教の指導者たちは、イエス様の弟子たちの主張に対して何も反論することができませんでした。ローマ帝国の政府もキリスト教の普及を阻止しようとしましたが、できませんでした。

 イエス様の最初の弟子たちはほぼ全員が逮捕され、イエスが死からよみがえったことを人々に伝えるのをやめなければ殺すと脅迫されました。しかし、彼らは皆、よみがえったイエス様が生きているのを見たと言い続けたのです。イエス様に従う者たちは、イエス様が生きておられると確信し、その真理を守るために、殺されても構わないとすら考えた人がほとんどだったのです。その確信の強さと、迫害に対する大胆さを見て、多くの人々が、彼らが真実を語っている、つまり、イエス様は本当に死からよみがえったのだ、と信じるようになりました。

 私自身も、これを信じている者の一人です。私は、イエス様が本当に死からよみがえり、死に打ち勝ち、私たちにも死を克服する道を示してくださったと確信しています。イエス様の墓が3日後に空っぽで発見されたのは、イエス様が約束通り死からよみがえられたからだと、私は考えています。このような結論に至ったのは、歴史的なことだけでなく、聖書をたくさん学んだことが大きいです。私は聖書をたくさん読んで、そこに書かれていることが、人間の考えでは思いつくことのできない、神様の驚くべき深い真理であることが分かりました。キリストの復活だけでなく、ほかにも聖書はたくさんのことを教えています。私は書いてあることを学んだだけでなく、聖書の教えが真実であることを、実際に体験してきました。

 このイースターの日曜日に、皆さんも、本当に死からよみがえることができるのかどうか、考えてみてください。私の祈りは、ここにいるすべての人が、イエス様の復活を祝うことに希望と喜びを見出すことができるようになることです。

 今日は、普段礼拝に来ていない方達も、一緒にこの礼拝に加わってくださっています。私たちは毎週日曜日にここで集まり、神様を礼拝し、聖書を学んでいます。毎月第3日曜日には、聖書に馴染みのない人にも興味深いトピックを取り上げて、キリスト教の基本的な教えを説明しています。聖書の教えを学びたい方は、その礼拝がわかりやすいかもしれませんが、他の日曜日でも、どなたでも参加できます。日曜日の礼拝は家族でささげるものとして捉えていますので、ぜひ子ども達も一緒に来てください。

 以上で、今日の聖書の話しを終わります。祈りましょう。