多くの人は、神の好意を得るためには、供え物を捧げたり、身を清めたり、食べるものに厳しい決まりを設けるなど、特別なことを行わなければならないと考えています。そして、そのようなことをすることによって、神の承認と祝福を受けることができると信じています。このように、良い人であること、あるいは悪い行いよりも良い行いを多くすることで、神を満足させ、報いを得ることができるという考え方が一般的です。
しかし、クリスチャンは、神に受け入れられるにはどうしたらよいかについて、少し変わった信念を持っています。私たちは、何かの儀式をして神様からの祝福を受けることはできないし、どんなに良いことをしても、私たちの心の中にある悪を覆うことはできないと信じています。つまり、何をしたとしても、自分の行いだけでは神に受け入れられることはないと信じているのです。しかし同時に私たちは、罪があっても、欠点があっても、私たちは完全に神に受け入れられ、愛され、祝福されると信じています。それは、キリストが私たちの身代わりとなって神の前に立ってくださったからであり、キリストに信仰を置く者はすべて、信仰に基づいて神に受け入れられると信じているからです。神様はキリストを信仰する者を、本人の行いではなく、キリストの行いに基づいて裁かれるのです。
今日の箇所で、パウロはクリスチャンがこのような信仰を持っていることが分かる3つの特徴を説明しています。ピリピ人への手紙3章3節を見てください。
ピリピ人への手紙3章3節
「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」
ここでパウロは、真の神の民が行う3つのことを挙げています。
1. 神の霊によって礼拝する
2. キリスト・イエスを誇る
3. 肉に頼らない
この3つの事は、真に神の家族の一員である者が、神を理解し、神に関わる方法を明らかにしています。今日はその一つ一つを見ていきたいと思いますが、まず一歩下がって、パウロがこのテーマを持ち出すに至った理由を考えてみましょう。
2節を見てみましょう。
ピリピ人への手紙3章2節
「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。」
この節でパウロは、ピリピの教会を惑わそうとする偽教師について、非常に厳しい、攻撃的な言葉を用いて説明しています。このような厳しい表現から、彼らの教えが真のキリスト教信仰と完全に対立するものであり、人々を迷わせ、永遠の呪いに導く危険なものであるとパウロが見ていたことが分かります。パウロが危険視した教えとはどのようなものだったのでしょうか。それは、人は自分の行いや業績によって神に受け入れられることができるという教えでした。
ここでパウロが批判しているのは、イエス様が救い主であると信じながらも、救いを受けるためにはユダヤ人の習慣や律法にすべて従わなければならないと教える、ユダヤ人教師たちのことでした。彼らは、イエス様を信じることは必要だが、それと同時に、ユダヤ教の律法や習慣をすべて守って努力しなければ、神に受け入れられることはできないと教えていたのです。そして、このユダヤ人教師たちにとって最も重要な掟の一つが、すべての人が割礼を受けなければならないということでした。旧約聖書で神様は、ユダヤ人の男子はすべて割礼を受けなければならないと命じられました。その結果、ユダヤ人は割礼を神の民のしるしと考えるようになったのです。割礼を受けていない者は、神の民の一員とは見なされませんでした。
しかし、3節でパウロは「私たちこそ割礼の者なのです」と書いています。これは、パウロが割礼をしない異邦人読者に向けて書いていることを考えると、おかしな表現です。ここでパウロが主張したのは、真の神の民とは、割礼の印を体の外側に受けた者ではなく、心の内側に変化を持つようになった者であるということでした。パウロはローマ人への手紙2章28-29節でも次のように言っています。
ローマ人への手紙2章28-29節
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」
これは、旧約聖書の律法における神の民への約束と一致しています。申命記30章6節で、神はこう宣言しています。
申命記30章6節
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」
イエス様はこの約束を成就されました。神様はイエス様を通して、割礼の印が体にあるユダヤ人だけではなく、信仰によって心に割礼を受けたすべての人を歓迎されたのです。
パウロは、この考えを否定し、救いを受けるためにはキリストへの信仰と体の割礼の両方が必要だと教えるユダヤ人教師たちについて、警告を発したのです。
神と人との関係に対するこの二つの見方は、互いに対立するものです。神様は、私たち自身の業績に基づいて私たちを受け入れるか、キリストへの信仰に基づいて私たちを受け入れるかのどちらかです。その両方であることはできません。もし、私たちの救いの一部が私たちの行いに依存しているなら、神様の命令に従うことによって救いを確保できるかどうかは、私たち次第です。しかし聖書は、私たちの救いは信仰に基づくものであり、行いに基づくものではないことを明確に教えています。パウロはエペソ人への手紙2章8-9節で次のように書いています。
エペソ人への手紙2章8-9節
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
今日の箇所でパウロは、自分の行いを頼りにすることが無益であることを示し、その代わりに、真の神の民はキリストに信頼することを明らかにしています。では、3節でパウロが述べている、真のクリスチャンの信仰の三つの特徴を見ていきましょう。
1. 神の霊によって礼拝する
まず、パウロは、真の神の民は神の御霊によって礼拝すると言っています。神の御霊によって礼拝するとはどういうことでしょうか。私は、パウロが考えていたことは二つあると思います。
第一に、私たちは聖霊を通して神様を礼拝します。旧約聖書では、割礼はその人が神の民に属すことを示すものでした。しかし、キリストの復活の後は、その人が神に受け入れられたことを示す新しいしるしは聖霊の賜物でした。ペテロは、異邦人のコルネリウスに福音を伝えるために神様に遣わされた時、このことをいち早く悟りました。使徒の働き10章には、異邦人が初めて神様の言葉を聞いた後に起こったことが記録されています。使徒の働き10章44-48節を見てください。
使徒の働き10章44-48節
「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。『この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。』ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。」
ペテロは、割礼を受けたことのない異邦人に聖霊の賜物が与えられているのを見て、驚きました。これは、神様がユダヤ人だけではなく、すべての人に救いを与えようとおられることを証明するものでした。これ以来、聖霊の賜物は、救いを求めてイエス様を信じるすべての人に与えられるようになりました。この賜物への信頼と、聖霊の導きと力づけによって、私たちは神を正しく礼拝するようになるのです。真のクリスチャンは、信仰に基づいて与えられる聖霊によって神を礼拝するのであって、自分の行いによるのではありません。
神の霊によって礼拝するということは、神の民がどのように神を正しく礼拝することができるかについて教えています。私たちは、単に外的な方法で礼拝するのではなく、霊的な、内的な方法で礼拝しなければなりません。ヨハネによる福音書4章23~24節を見てください。
ヨハネによる福音書4章23~24節
「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
神への真の礼拝は霊的な礼拝です。それは、単に肉体からではなく、私たちの内側から、私たちの霊から来る礼拝なのです。真の礼拝とは、単に何かの言葉を発することでも、儀式を行うことでもありません。私たちの心の中にあるもの、私たちが何を考え、何を信じ、何を愛し、何を大切にしているかということなのです。外面的な礼拝は簡単にごまかすことができます。しかし、もし私たちの霊が神を愛していないなら、もし私たちの心が聖霊によって変えられていないなら、私たちの礼拝は真のクリスチャンの礼拝ではありません。
2. キリスト・イエスを誇る
次にパウロは、真の神の民はキリスト・イエスを誇りとする、と言っています。これは、自分の良い行いによって神に受け入れられると信じている人たちとは対照的です。もし神様が善い行いをする人を受け入れるなら、その人は自分の善良さによって神が自分を受け入れてくれたことを、自慢したくなることでしょう。しかし、もし神様が信仰に基づいて私たちを受け入れてくださるのなら、私たちは自分の中に誇れるものは何もありません。私たちが救われたのは、神が憐れみ深く恵み深い方であり、イエス様が一方的に私たちの救いに必要なすべてのことを成し遂げてくださったからなのです。私たちは今、神の前に立ち、愛され、受け入れられ、尊ばれています。しかし、それはすべて無償の贈り物として与えられたものであり、私たちが獲得したものではないので、私たちは何も誇ることができないのです。
その代わりに、私たちが誇れるのは、イエス様がしてくださったことだけなのです。そして、イエス様を誇りに思うことは正しいことです。私たちは、イエス様がどんなに素晴らしい方で、私たちを罪から救ってくださったかをみんなに伝えるべきです。真の神の民は、自分がした良いことを自慢して、他の人に自分をほめさせようとするのではなく、イエス様がしてくださった良いことを自慢して、他の人にイエス様をほめさせようとするのです。
3. 肉に頼らない
最後にパウロは、真の神の民は肉に頼らない、と言っています。この点は、他のすべてのしるしを要約していると思います。肉に頼るということは、自分の働きや行いに頼るということです。私たちが良いことをすれば、自分に自信を持ち、自分の功績を誇りに思うのは当然のことです。しかし、自分の救いと神との関係を見るとき、クリスチャンは、キリストにではなく自分自身に頼る誘惑と戦わなければなりません。
4-7節では、パウロ自身も自分の良い行いによって神に受け入れられようとしたこと、そしてそれが効果がないばかりか、実は以前よりもさらに罪深くなってしまったことを書いています。
ピリピ人への手紙3章4-7節
「ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」
パウロは、ユダヤ教の律法を守ることで神の好意を得られると信じていた人たちの一人でした。彼は、ユダヤ人の中でも最も信心深く、律法を研究しそれを実行することに人生を捧げたパリサイ派の一員でした。パウロは当時、最も敬虔で信心深いユダヤ人の一人として、仲間たちからも賞賛されるような人でした。しかしパウロは、自分がやってきたことが全く無意味であることを悟るようになったと言うのです。3章8節では、パウロはパリサイ人としてのこれまでの功績をすべて「ちりあくた」、つまり「ゴミ」のようなものだ、と書いています。それらは、捨てて燃やすだけの腐ったゴミのようなもので、これを書いた時のパウロはそういったことに嫌悪感すら抱いていたようです。
律法に対して従順な生き方は、パウロを高慢にし、実際に神の民の敵となるように仕向けただけでした。パウロの高慢さは、教会に対する暴力と迫害につながったのです。彼が肉において成し遂げたことは、彼を神に近づけるどころか、神から遠ざけ、神の怒りと罰を受けるべき者としたのです。パウロはそのことに気づき、最悪の状態に陥りましたが、そこで絶望するのではなく、キリストに立ち返り、永遠のいのちを手に入れました。パウロが自分の業績を頼りにすることを捨て、キリストに信頼を置いたので、神は彼を引き上げ、受け入れ、愛し、永遠の王国での居場所を約束されました。
私たちはしばしば、神様が私たちをどう思っておられるかを測る尺度として、自分の行いを見たくなることがあります。私たちが良いことをしている限り、神は私たちを愛し祝福してくださるが、もし私たちが罪に陥ったら、神は私たちに怒り、罰せられるというのは、ある意味で人間的で自然な考え方です。しかし、このように考えることは、自分の肉に信頼することです。キリストにある自由と喜びは、神が私たちを私たちの行いに基づいてではなく、キリストの行いに基づいて受け入れてくださることを知ることです。私たちがキリストを信じる信仰を持つとき、神はキリストの義のすべてを私たち自身のものとしてくださいます。パウロはローマ人への手紙8章1節で次のように言っています。
ローマ人への手紙8章1節
「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
私たちは割礼の者です。私たちは、単なる外面的な礼拝を行うのではなく、私たちの心に新しい命を与えてくださった神の御霊によって、礼拝を行います。私たちは、自分たちがしたことを誇るのではなく、キリストが私たちのためにしてくださったことを誇ります。私たちは、キリストが良い方であり、憐れみ深い方であり、力のある方であることを周りの人に宣べ伝えます。私たちは、肉に信頼を置きません。私たちは、神が私たちの行いによって受け入れてくださるという考えを否定し、神が私たちを受け入れてくださるのはキリストのおかげであると断言します。私たちは、自分には誇れるような良いところが何もないことを認めます。しかし、神が私たちの中にその良さを置いてくださり、キリストへの信仰を通して、私たちを愛し、赦し、受け入れてくださるので、喜びに満たされるのです。この真理に心から感謝したいと思います。