今の人生と死後の世界の関係

ピリピ人への手紙3章8節~16節

ロビソン・デイヴィッド
2022年03月27日

ピリピ人への手紙3章8節~16節
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」

 

 今日は、一つの非常に重要な質問を考えてみたいと思います。

 私たちがこの人生で行うことは、私たちが死んだ後に起こることに何か影響を与えるのでしょうか?言い換えると、この人生で悪い事をしていたら、死んだ後に罰せられるのでしょうか?逆に、善良であれば死後の世界で報酬を得られるのでしょうか?

 この問いにどう答えるかによって、私たちの生き方は大きく変わってきます。そしてその答えについては、世界中の人々がさまざまな意見を持っているようです。しかし、その多くは2つに分類されるように思います。

 ひとつは、「死後の世界で良い結果を得るためには、生きている間に良いことをしなければならない」という考えです。これは東洋と西洋の文化に共通しているようで、興味深いと思います。輪廻転生や天国と地獄を信じるかどうかにかかわらず、死後に何が起こるかは地上での行いによって決まると考える人たちが、東洋にも西洋にも大勢います。地上で良い行いをすれば、死んでも、より良い人生に生まれ変わったり、天国に行けるが、悪い行いをすれば、より悪い状態に生まれ変わったり、地獄に行くという考え方です。

 2つ目のグループは、1つ目のグループと逆の考え方です。つまり、この世での行動は死後の状態に何の影響も与えないという考え方です。中には、死後の世界は存在しないので、私たちが何をしようが関係ないと考える人もいます。または、神はとても愛に満ちていて、誰でも天国に入れてくれると信じている人もいます。完全に悪人でない限り、神様は寛大に、天国に入れてくれるだろうと考えるのです。実はクリスチャンと名乗る人の中にも、このような考えを持っている人が多くいます。救いは信仰によるものだから、この世で良いことをしても悪いことをしても、神はそれを赦して天国に迎え入れてくれると信じているのです。

 しかし、この2つの考え方には、どちらも問題があります。まず、地上での行いによって裁かれると考える人は、良い死後を迎えるために必要だと思われる、すべての規則に従わなければならないというプレッシャーに悩まされることが多いのです。そういう人は、死について考えると、恐怖でいっぱいになり、地上での成績が十分でなかったために地獄に落ちるのではと恐れることもあります。一方、この世での行いが死後に影響しないと信じている人は、他人を気にせず、自分勝手に生きたいという誘惑に駆られます。善いことをしても何の報酬もないのなら、何の意味があるだろうか、と考えます。

 実は、三つ目の考え方があります。それは、聖書が教えているものです。今日の箇所でパウロは、クリスチャンが死後の世界をどのように見るべきか、そして現在をどのように生きるべきかについて、素晴らしい洞察を与えてくれています。私たちは今日、まず一つの非常に重要な質問を考えました。「私たちが今の人生ですることは、死んだ後に起こることに何か影響を与えるのか?」という質問です。今日はこれから、その質問に対して聖書がどのように答えているかを見たいと思います。その質問に答えるために、まず他の3つの質問を考える必要があると思います。今日の箇所に、すべての答えが書かれていました。

1.        信仰とは何か。

2.        死後に対してキリストが与える大きな希望とは何か。

3.        生きる意味とは何か。

 

1.信仰とは何でしょうか?

 信仰について誤解している人も多いと思います。しばしば信仰とは、単に神の存在を信じること、あるいはイエスが十字架で死んでよみがえられた、というような特定のことをしたと信じることだと考えられています。しかし聖書が語る信仰とは、実はもっと深いものです。単に情報を理解して「これは本当だ」と信じることではなく、信頼することなのです。たとえば、オンラインでプロフィールを読んだだけのベビーシッターに子供を預けるのと、信頼している配偶者に子供を預けて外出するのとでは、安心感が全然違うのと同じです。この箇所で、パウロの信仰を見てみましょう。

 

ピリピ人への手紙3章8-9節
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

 

 パウロは、キリストへの信仰によって、他のすべてのものよりもキリストを大切にし、価値を見出すようになりました。パウロは、キリストが自分の持っている他のすべてのものよりも優れていると信じていました。キリストを得るために必要なことであれば、自分の人生のすべてをあきらめる価値があると信じていたのです。もしキリストへの奉仕のために死ななければならないとしても、キリストさえあれば、それは彼にとって小さな犠牲に過ぎないのです。

 また、パウロはキリストが自分を義としてくださる、という信仰を持っていたことがわかります。パウロは、キリストを得るためにすべてを捨てようとしただけでなく、自分が神に受け入れられるために必要なすべての条件をキリストが満たしてくださると信じていたのです。パウロは自分が永遠のいのちを受けるために必要な条件を満たすことができないことを認識していましたが、キリストが自分のためにそれをやってくださると信じていたのです。

 さらに、パウロのキリストへの信仰は、キリストと永遠に共にありたいという切なる願いという形をとっていたことがわかります。パウロの信仰は、彼の価値観の基盤となりました。信仰は、パウロの目標と欲望のすべてを形作(かたちづく)りました。パウロは、金持ちになることや人気者になることにあこがれてはいませんでした。自分の肉欲を満たすことを願っていたのでもありません。彼は永遠を切望していました。

 

2.        死後に対してキリストが与える大きな希望とは何か。

 パウロの永遠へのあこがれは、2番目の質問の答えを私たちに明らかにします。すなわち、死後に対してキリストが与えてくださる大きな希望とは何でしょうか。

 死後についてよくある質問は、「天国はどのようなところなのか?」というものかもしれません。この質問には、天国が遠いところにあり、死んだらそこに行き、永遠にそこに住むという前提があります。しかし、聖書の教えはそうではありません。ですから、もっと適切な質問は、「死後の世界に対してキリストが与えてくださる大きな希望とは何だろうか」という質問だと思います。今日の箇所では、パウロが死後、キリストにおいて成就されることを切望していた3つの事柄を見ることができます。これらのことを見ることによって、私たちは死後の世界がどのようなものであるかをよく理解することができます。

11節を見てみましょう。
「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

 まず、パウロが死者の中から復活することを切望していたことが分かります。これはパウロがキリストから得たいと望んでいたものであり、私たちクリスチャンの究極の希望と言えます。単に私たちのたましいが天国に行って永遠にそこに留まるだけではなく、キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも死者の中からよみがえらされることです。コリント人への手紙第一15章には、キリストがこの世に戻ってくること、そしてその時、キリストに信仰を置いた人々を死者の中からよみがえらせることが書かれています。彼らは死なない者になり、年をとることもなく、病気や怪我や死に悩まされることもありません。ヨハネの黙示録21章3節には、次のように書かれています。

「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」

 これを読むと、地が天となることが分かります。神は地上に住まわれ、キリストは被造物の正当な支配者として君臨し、全世界は、神が救い出し、死者の中から永遠のいのちへとよみがえらせた神の民で満たされるのです。

 第二に、パウロは10節にあるように、キリストを知ることを切に願っていました。この切なる願いは、復活の後に完全に満たされます。今キリストを信じている人たちは、キリストを直接見ることができるようになるのです。私たちは、私たちを創造した神だけでなく、私たちを救うために天を離れてこの世界に来られた神を知ることになるのです。私たちの救い主であり神であるキリストとの関係は、キリスト教における死後の希望の中心です。キリストは私たちへの報酬として、ご自身をささげられました。

 パウロが切望している第三のものは、12節にあります。

 ピリピ人への手紙3章12節
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

 パウロの三つ目の願いは、完全な者とされることでした。 この願いは、私たちが今はまだ完全ではないことを教えています。私たちは罪深い人間であり、間違いを犯すだけでなく、悪を行うのです。私たちは神と自分自身を汚(けが)します。しかし、キリストを信じる者には、いつか完全な者とされるという約束があります。これも、私たちが死んだ後に実現するのです。私たちは新しいいのちによみがえらされ、いつも善だけを切望する、新しい心を持つようになります。私たちは、神とお互いを純粋に愛するようになります。私たちは二度と、罪悪感や恥や裁きを経験することはないのです。

 これがキリストが与えてくださる死後のいのちの希望です。キリストは私たちを死からよみがえらせ、死なない者にし、キリストの正しい支配のもとで永遠にその王国に住まわせることを約束してくださっています。また、キリストを知り、キリストとともに生きるという賜物を与えてくださっています。私たちを完全な者とし、すべての罪と恥から解放してくださるのです。

 聖書によると、天国は、単に私たちの個人的な欲望をすべて満たすことができる、空(そら)の上の素晴らしい魔法の場所ではありません。そうではなく、創造主(ぬし)である神と共に永遠に生き、神を知り、神を礼拝し、完全な者とされる場所なのです。それは、私たちの祖先が神を拒んで罪に陥ったときに失った、私たちが創られた目的のために生きることができる機会なのです。

 

3.        生きる意味とは何か。

 ここまで、信仰の意味と、死後についてキリストが与えてくださった希望について、聖書が明らかにしていることを見てきました。これらのことを念頭に置くと、第三の質問に対する答えが明らかになります。

 第三の質問とは、人生の意味とは何か、でした。

 もっと具体的には、今、この瞬間を生きている私たちの人生の意味は何でしょうか。私たちは何をするために今ここにいるのでしょうか。先ほど、私たちの大きな希望と目的は、永遠のうちに神を知ることであることを見ました。キリストへの信仰によって神の前で義と認められ、キリストの王国で永遠のいのちを与えられ、死なない完全な存在となり、永遠に創造主(ぬし)を知り、礼拝することが私たちの究極の目的だ、と学びました。

 しかし、今の私たちのこの人生の目的は何なのでしょうか?私たちが初めてキリストを信じてから、キリストが私たちを永遠のいのちに引き上げてくださるまでの間に、私たちは何をしているべきなのでしょうか。

12-16節を見てください。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」

 

 この節でパウロは、私たちのクリスチャンとしての人生がどのようなものであるかを説明しています。私たちは、完全な者になるように召されています。これは、私たちが今はまだ完全ではないことを認識することから始まります。パウロはこのことを12節で述べています。たとえキリストに大きな信仰を持っていても、キリストにおいて神の前に正しい者であっても、パウロは自分における神のみわざがまだ完全でないことを認識しています。信仰によってキリストのもとに来たとき、彼の完全への旅が始まったのです。

 パウロは、この旅を進めるためには、キリストが自分をキリストのものにしてくださったので、自分もキリストを自分のものにするために邁進しなければならないと述べています。私たちクリスチャンのこの世での目的は、キリストにますます近づき、成長するにつれてキリストに似た者となっていくことです。私たちは、このことのために、あらゆる努力とエネルギーを向けることを求められているのです。また私たちは、失敗や失望を恐れることなくこれを行うことができます。なぜなら、私たちは信仰によって、自分自身の努力に基づいてではなく、キリストに基づいて受け入れられていると信じているからです。私たちの成功の望みはキリストにあるのですから、私たちは恐れることなく完全さを追求することができるのです。

パウロはさらに13-14節で次のように言っています。

「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」

 これは、キリストにある私たちの究極の自由です。私たちの過去に起こったことは重要ではありません。私たちは、過去に起こったことをすべて忘れ、賞が与えられることを知りながら、ゴールに向かって全速力で突き進むのです。これは、キリストと完全さを追い求めることを決してあきらめないようにという励ましでもあります。この世の歩みの中でどんなに遠くまで来ても、キリスト・イエスにあって神から天に召され、死を通過して永遠のいのちによみがえるまで、私たちは全力で走り続けなければならないのです。

 パウロは最後に15節で、このことを強調するために、クリスチャンの成熟について少し奇妙な定義をしています。パウロは15節で、私たち「成熟した」者はこのように考えていると言っています。ここで使われている「成熟」というギリシャ語は、実はパウロが12節で、自分はまだ「完全」ではないと言った時と同じ言葉です。15節でパウロは、「完全な者」はこのように考えるべきであると言っているのです。完全な、つまり成熟したクリスチャンは、どのように考えるべきなのでしょうか。パウロは、自分が完全でないことを認識しながらも、完全な者になるために人生を捧げ、キリストを通してのみ完全な者とされることができるという信仰を持っていました。

 これは、私たちがこの世で達することのできる、最も完全な状態です。この世における私たちの完全とは、神のみわざがまだ終わっていないこと、そして、キリストがそれを完成させてくださることを信じ、完全な状態に達するために、自分のすべてをもって努力している状態のことです。このようにして、クリスチャンは、神の前で受け入れられるかどうかは自分の行いにかかっているというプレッシャーから解放されると同時に、善を行う努力をあきらめないように励まされ、死後の世界についての正しい理解を持つようになります。 私たちは、成熟した考え方をし、不完全な者として謙虚さを持ち、キリストが私たちのうちに始めてくださったみわざを完成させてくださることに希望を持つことができるように、祈りましょう。