負いきれないくび

使徒の働き15:6-11

ロビソン・デイヴィッド
2020年07月26日

 救いは信仰のみによるのでしょうか、または、救いを受けるためには神様の律法を守らなければならないのでしょうか。初代教会は、今日(きょう)の箇所の中でこの問題に直面していました。またこの同じ問(と)いが、現在も教会を分断しています。カトリック教会、モルモン教、またエホバの証人が教えていることは、救いを得るためにはイエス様を信じることに加えて、ルールを守って正しい生活を行うことが必要だということです。しかし今日(きょう)の箇所から分かることは、初代教会の時代からクリスチャン達は、救いは律法の行いによるのではなく信仰によると信じてきたということです。
 この問題は、人間の深いニーズと関係しています。どうすれば神に受け入れられるのか。神様に受け入れられるためには、神様を尊敬して、正しい生活をしなければならないのか。神様を汚(けが)すことをしてしまったら、神様は私を拒むのだろうか。今日は使徒の働き15章から、この大事な問いを考えたいと思います。
 前回、使徒の働き14章で使徒パウロとバルナバの第一回宣教旅行の終わりについて学びました。この初めの宣教旅行の前には、ほとんどのクリスチャンはユダヤ人か、ユダヤ教に改宗した異邦人でした。そしてほとんどのクリスチャンはバプテスマを授けられた後も、ユダヤ教の習慣を守り続けていました。彼らのほとんどが割礼を受けて、ユダヤ教の食事制限を守って、汚(けが)れたものを儀式的に避けていました。
 パウロの初めの宣教旅行の前には、初代教会は異邦人に対してあまり伝道せず、主にユダヤ人に対して伝道していました。多くの教会が、イエス様はユダヤ人に約束された救い主なので、異邦人がイエス様の救いを受けたいなら、ユダヤ教徒にならなければならないと考えていました。
 しかし、パウロの宣教旅行の初めに多くのユダヤ人が福音を拒んだので、パウロはユダヤ人ではなく異邦人に福音を伝え始めました。
使徒の働き13:46
 結果として多くの異邦人がクリスチャンになり、パウロが開拓した教会には、ユダヤ人と異邦人が混在するようになりました。パウロとバルナバの宣教旅行が、教会内の民族のバランスを根本的に変えたのです。彼らがガラテヤで開拓した教会の中では、異邦人はユダヤ教の習慣を守ることも割礼を受けることもなく、モーセの律法の儀式的な部分も守っていませんでした。つまりパウロが開拓した教会の異邦人メンバー達は、ユダヤ教を通してキリストを受け入れたのではなくて、ただ信仰によって直接キリストを受け入れました。しかし、エルサレムのユダヤ人クリスチャン達がこれを聞くと、大問題に発展してしまったのです。
 パウロ達は宣教旅行を終えると、アンティオキアにあった母教会に帰りました。その後、ユダヤ人クリスチャン達がパウロがガラテヤで開拓した教会に入って、救いを受けるために割礼を受ける必要があることや、モーセの律法のすべてを守らなければならないと教え始めました。それを聞いたパウロは、そのユダヤ人の教師たちに反対するために、ガラテヤ人への手紙を書いたのです。
 すると、エルサレムのユダヤ人クリスチャン達は、パウロと議論するためにアンティオキアにあったパウロの母教会にやって来ました。
 結果として、アンティオキアの教会はこの問題を解決するために、パウロとバルナバをエルサレムに送り出しました。その時のことが使徒の働き15:2に記録されています。二人がエルサレムに着くと評議会が開かれて、会議の中で色んな人がその問題について議論しました。今日は、その中でペテロが言ったことにフォーカスしたいと思っています。そこから、三つの点を考えたいと思います。
1.    神様は良い行いではなく信仰によって人を受け入れられる。
2.    律法に従うことは誰にも負いきれないくびきである。
3.    私たちは恵みによって神様に受け入れられた。
 まず一点目、神様は良い行いではなく信仰によって人を受け入れられる、ということについて考えましょう。
使徒の働き15:7-9
 ここでペテロは、神様がペテロを通して初めて異邦人に御霊を下さった場面を振り返りました。神様はペテロを、ローマの百人隊長だったコルネリウスに福音を伝えるために送り出しました。そしてペテロが福音を説明し終わらない内に、聖霊が異邦人にくだりました。神様は異邦人の彼らとユダヤ人クリスチャンの間に何の差別もつけず、同じ方法で御霊をくださったのです。
 神様は一番大事な贈り物である聖霊を、モーセの律法を全然守らない異邦人にくださいました。バプテスマを受けることも、口で信仰を告白することもする前に、神様は彼らを受け入れて、御霊をくださいました。彼らはペテロのメッセージを聞いている間に、何も言わないまま心の中でキリストを信じて、信仰を持つようになりました。そして心の中でイエス様を信じた瞬間に、神様は御霊をくださったのです。このことの意味は、彼らが信仰によって神様に受け入れられたということです。
 つまり神様に受け入れられるために、自分をきよめて、様々な儀式をして、良い生活をすることは必要ではないのです。15:9を見て下さい。
 異邦人たちは自分の心をきよめたのではなく、神様が彼らの心をきよめてくださいました。私たちもまた、汚(けが)れたままで、キリストに対する信仰によって神様にきよめられたために、神様に近づくことが許されました。
 私たちは、自分の心をきよめることはできません。私たちは罪びととして生まれて、神様に従うことができませんでした。自分の罪に閉じ込められていました。神様はそのすべてを知っておられます。神様は深い恵みによって、私たちを良い行いではなくて、信仰によって受け入れて、私たちをきよめてくださいます。これは良い知らせです。これが福音です。
 ペテロの二つ目の点は、律法に従うことは誰にも負いきれないくびきだ、ということでした。使徒の働き15:10を見て下さい。
 一つ目のポイントの中でペテロは、人がどうすれば救いを得るのかについて語りました。それは信仰によることです。二つ目の点は、クリスチャンになったあと、どうすれば神様を喜ばせる生活をできるのかということについてです。ユダヤ人クリスチャン達の主張は、異邦人はイエス様に対する信仰によって救いを受けたが、今後はモーセの律法を守らなければならないというものでした。これが自然な結論に見えるかもしれませんが、ペテロはこれに強く反対しました。律法はユダヤ人でさえ負いきれなかったくびきだと言ったのです。しかし、そもそも神様はなぜ、ユダヤ人に負いきれない律法を与えたのでしょうか。パウロはガラテヤ人への手紙の中で、このことを説明しています。ガラテヤ人への手紙3:19-24を開いてください。
 ここでパウロが言っているのは、律法は一時的なものだということです。律法は、約束を受けた子孫であるイエス様が来られるまでのものでした。パウロは律法の目的は人間を義とすることではないと教えています。律法の目的は、罪深い人間を責めることによって人間に自分の罪を明らかにし、救い主が必要だと教えることでした。つまり、律法の目的は、良い行いによって神様に受け入れられるのは無理だと教えることを通して、イエス様に対する信仰によって神様に受け入れられる道を示された時に、彼らがイエス様を信じることができるようにすることだったのです。
 しかし、ユダヤ人は律法の目的を誤解していました。彼らは、モーセの律法を守らないなら、神様は彼らを絶対に受け入れてくださらないと考えていました。モーセの律法を負いきれないくびきに変えてしまったのは、彼ら自身だったのです。
 モーセの律法は学校のテストと似ていると思います。テストは子供の教育に役に立つことです。テストを受けることによって、自分がどこが分かって、どこが分からないかが分かるので、これから何を勉強しなければならないかが分かります。しかし、親が子どもにこのように言うことを想像してみてください。「全部のテストで100点を取らなかったら、この家族の一員ではない。私たちはお前を受け入れない。」こんなことを親に言われたら、どのような結果になるでしょうか。
 そのような姿勢でテストを受けるなら、テストは役に立つことから、とても有害なことになってしまうでしょう。その子供のアイデンティティーは、テストの結果と密接につながるようになります。テストで100点を取ることができる限り、自分を肯定できるかもしれませんが、他の学生を見下ろして、傲慢な人になる危険もあります。しかしすべてのテストで毎回100点を取るのは無理ですね。100点を取れないかもしれないと思ったら、親の承認を失(うしな)わないためにカンニングをするかもしれません。100点を取れなかった日には、恐れと恥に満たされるようになるでしょう。ユダヤ人にとって、モーセの律法はこのように見えていたと思います。私たちも、神様の承認を得るために自分の業績に頼るなら、傲慢や、恥や、恐れに満ちた人生になると思います。
 しかし、神様はそれぞれの業績によって人間を受け入れることはされません。それは誰にも無理なことだからです。そうではなく、誰でもイエス様に対する信仰によって、神様がその人を受け入れてくださると約束してくださいました。神様は良いお父さんのようにご自分の子供たちを愛して、私たちの弱さに手を差し伸べてくださっています。
 神様は、イエス様に信頼する人が正しい生活をできるために、心をきよめる御霊を下さっています。ご自分を知って、ご自分を喜ばせる生活が分かるように、みことばもくださいました。また、クリスチャンの交わりや、教会のリーダーたちも下さって、霊的成長の機会も与えてくださっています。神様は私たちが自分の力で正しい生活をできないと分かっておられるので、イエス様に対する信仰によって義となさせて、神様を喜ばせる生活をするのに必要なことすべてを下さっています。
 最後に、ペテロの三つ目の点を考えましょう。私たちは恵みによって神様に受け入れられた、ということです。使徒の働き15:11節を見て下さい。
 神様が良い父親のようだとすると、どうしたら神様の子どもになれるのか、ということが重要な問いになります。ペテロは私たちが主イエスの恵みによって救われると言いました。それが神様の子どもになる道を表しています。
 すべての人が神様の子どもなのではありません。イエス様は地上の働きの中で、対立したパリサイ人を悪魔の子と呼びました。また、自分を信じようとしない人を世の子と呼びました。人はどうしたら神の子になれるのでしょうか。それは「恵みのゆえに、信仰によって」です。
エペソ人への手紙2:8-9
 もし私たちが行いによるのではなくて、恵みのゆえに救われたなら、誇ることはできません。自分の努力によって救われたのではなく、神様が私たちの救いを達成して下さったからです。神様が私たちを救う理由は、私たちに良い所があったからとか、ふさわしい者だからではないのです。聖書によると、私たちは悪い者で、神様の救いと愛に絶対に値しない者でしたが、神様は恵み深いお方なので、私たちを救ってくださいました。
ローマ人への手紙5:6-9
 ここでパウロは、イエス様のいけにえの死が非常に驚くべきことだと伝えています。イエス様が良い人のためではなくて、罪びとのために死んでくださったからです。イエス様は邪悪な人のために死にました。神様の御(み)怒(いか)りにふれ、神の臨在から追い出される人のために死んでくださいました。私たちのために死んでくださったのです。これが恵みです。
 この恵みのゆえに救われるという真実が、福音の中心的な教えの一つです。この真実は私たちをまったく新しいいのちに導きます。もし私たちがまだ罪びとだった時に神様の恵みによって受け入れられたのなら、私たちの罪が私たちを神様から引き離すことは決してありません。私たちの義は救いを受ける要件ではなかったので、不義によって救いを失うこともないのです。神様は私たちを恵みのゆえに救われたので、私たちが救われた後に罪を犯す時にも、神様は恵みによって、私たちを拒絶することをされません。代わりに、私たちが罪を犯す時、神様は愛によって、また恵みによって、良い羊飼いがいなくなった羊を見つけるまで捜し歩くように私たちを探して、ご自分の元へ連れ戻してくださるのです。
 福音の真実は、神様が私たちを受け入れてくださる理由は私たちとは何の関係もなく、ただ神様が良いお方だからです。神様と正しい関係を持つためには、神様の恵みに信頼することが必要です。神様の恵みは私たちを傲慢や恐れ、恥から解放して、自由、喜び、そして感謝に満ちた人生に導いてくださいます。神様が恵みによって私たちをご自分の子と呼んでくださいました。その恵みに感謝し喜びましょう。