死んだあと何があるのか

ヨハネの福音書6:40

ロビソン・デイヴィッド
2020年08月 9日
今週、日本中で多くの人がお盆をお祝いします。私はアメリカで育ったので、お盆についてはまだ分からないこともあります。しかし、日本人がお盆をお祝いするのをみると、日本人は本当に家族を大事にする人達なんだな、と思います。多くの日本人が、両親や、おじいさん、おばあさんを訪ねるために故郷に戻って、家族と一緒に時間を過ごします。

 家族が集まるという意味では、アメリカにもお盆によく似た習慣があります。サンクスギビングという祝日で、毎年11月の第三木曜日と次の日の金曜日がお休みになります。その二日と週末を入れると4日間のお休みになるので、その期間に多くの人が実家に帰って、家族と一緒にサンクスギビングをお祝いします。

 しかし、お盆とサンクスギビングの間には違いもあります。お盆は、今生きている家族に関する祝日というだけではなくて、もう亡くなった家族にも関わる祝日ですね。お盆の期間には、日本人は亡くなった家族を想って、敬意を表します。私の妻は日本人なので、お盆の時に妻の祖父母を訪ねたことがありました。今年も訪ねたいところですが、コロナの不安があるので、今年は行けません。前に訪ねた時には、妻の親戚が集まって、亡くなった親族の写真を見たり、仏壇に亡くなった人の好きだった食べ物を供えたりしていました。

 宮古に来てから、宮古独特のお盆の習慣も見ることができました。宮古では、亡くなった親族の霊が家を見つけることができるように、玄関先で火を焚いたり花火をしたりします。そのような習慣を見ると、日本人が家族を本当に大事にしていることが分かります。

 日本に来てから、お盆の時期には、約10年前に亡くなった私の日本人の祖母を思い出します。祖母は沖縄に生まれて育ちました。第二次世界大戦のあと、復興事業で沖縄に行っていたアメリカ人の祖父と出会って結婚しました。そして、20代で沖縄からアメリカに移住したので、祖母は人生のほとんどをアメリカで過ごしました。でも私にとっては、祖母はとても日本人らしい人でした。英語は上手でしたが、なまりが強かったです。また日本料理を作ることが大好きで、私と兄弟たちやいとこ達にいつも日本料理を作ってくれました。沖縄の音楽と伝統的な踊りも大好きで、私の妹に沖縄の踊りを教えてくれました。子どもの頃に祖母の家に遊びに行くと、時々祖母の日本人の友達が来ていて、何時間も日本語で会話していました。子供の私は、おばあちゃんは何を言ってるんだろう、と思っていました。

 祖母はアメリカでクリスチャンになり、祖父も元々はクリスチャンではなかった人ですが、祖母の影響で晩年にクリスチャンになりました。祖母は熱心に日本人教会に通っていました。その教会が毎年、日本の夏祭りをやっていたので、毎年祖母と一緒にそのお祭りに行って、日本の食べ物を食べたりゲームをしたりしました。そんな祖母の影響で、私は日本文化をとても好きになりました。祖母の存在がなかったら、私は日本に来ていなかったと思います。今日本に住んで日本の文化を学んでいるので、祖母のことをもっとよく理解できるようになったと思います。

 私はクリスチャンなので、お盆のすべての行事に参加することはできません。それはお盆の行事には、祖先を礼拝するという宗教的な意味があるからです。しかし、親戚が共に集まって、亡くなった親族を思い出すというお盆の一面は、とても素晴らしい時間だと思います。多くの人にとって、死はあまり考えたくないことですが、たまにそのことについて考えるのは大切なことだと思います。私たちは皆、亡くなった人を知っていて、将来私たちも死んでいくわけです。このお盆の時期、多くの人が、死んだあと何かあるのか、亡くなった親戚が今どこにいるのか、考えていると思います。

 イエス様は死についてよく教えました。今日はこの短い時間で、イエス様の死に対する教えを見てみたいと思います。
ヨハネの福音書6:40
  わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。
 これはイエス様がおっしゃった言葉です。イエス様が教えられたことは、死は恒久的なものである必要はなくて、ご自分を信じる人をよみがえらせてくださる、ということです。聖書によると、イエス様はたくさんの奇跡としるしを行って、死んだ人をよみがえらせたこともありました。先ほど子供たちのお話しで、妻がラザロという人物について話しましたが、イエス様はラザロをよみがえらせる前に、とても興味深いことをおっしゃいました。ラザロは眠ってしまったが、私は彼を起こしに行く、と言われたのです。しかしイエス様がそれを言われた時には、ラザロはもう死んでいました。ここでイエス様が意味していたことは、イエス様にとって死は睡眠のようなことで、死んだ人を死から起こすことができる、ということでした。
 さらに今読んだ箇所によると、イエス様はご自分を信じる人を終わりの日によみがえらせると約束されました。それだけではなくて、ご自分を信じる人には、永遠の命も与えられると約束されました。つまり、その人が死んでも、イエス様がその人をよみがえらせてくださり、その人は死をもう一度経験することは決してない、ということです。
 しかし、この素晴らしいことを行うために、イエス様は大きな代償を払ってくださいました。

マルコの福音書10:45
 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
 これもイエス様のことです。イエス様は人の子と呼ばれて、自分が仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来られました。つまり、ご自分を信じる人を救うために、ご自分の命を捧げられたのです。イエス様を信じている人が永遠の命を持つために、イエス様ご自身が死んでくださったのです。しかし、死はイエス様に勝利することはできず、十字架の死から三日後に、神様はイエス様をよみがえらせました。そのあと、イエス様は生きたまま天に上られました。イエス様の約束は、いつかこの世に戻られて、ご自分を信じる人をよみがえらせ、永遠の命を与えてくださるという約束です。
 クリスチャンはその希望をしっかり握っています。ですから、クリスチャンは死を違う視点から見ています。

テサロニケ人への手紙第一4:13-14
 眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
 私たちは、家族や親戚が亡くなる時、悲しんでその死を悼みます。亡くなった人が生きている間に一緒に過ごした時間を思い出しては、会いたいと思います。聖書が教えていることは、死は悲しみを引き起こすけれども、キリストを通して、その悲しみの中に希望が見つかるということです。神様はイエス様を信じて眠った人たちを、イエス様とともに連れて来られると約束されたからです。
 私の人生で最大の後悔の1つは、祖母と日本語で会話する機会がなかったことです。祖母が亡くなる前に、私は日本へ行く準備を始めて、日本で日本語学校に行って勉強することになりました。日本語ができるようになったら、祖母と日本語で会話することを楽しみにしていましたが、日本に引っ越す少し前に、祖母は急に脳卒中で亡くなってしまいました。しかし、この人生の間に祖母と日本語で会話する機会はありませんでしたが、いつかキリストが私と祖母を再会させてくださって、その時には祖母と日本語で会話する機会があるはずだと確信しています。
 祖母と再会する希望は素晴らしいものですが、それよりも期待していのは、その希望を与えてくださったイエス様と直接会うことです。私に永遠の命を与えるためにご自分の命を捧げてくださったイエス様に、直接感謝することを、何よりも楽しみにしています。