キリスト教のタブーって?

マルコによる福音書7:18-23

ロビソン・デイヴィッド
2020年09月20日

 日本に来たばかりの頃、興味深かったのは日本のタブーを学ぶことでした。例えば、初めて日本に来た時、箸の使い方がよく分かりませんでした。ある時、日本人の友達と食事をしていた時、箸を置きたかったんですが、どこに置いたらいいのか分からなかったので、ご飯に突き刺してしまいました。すると日本人の友達が突然あせって、「それは絶対ダメだよ」と教えてくれました。

 私は、なぜ箸をご飯に突き刺すのがダメなのか分かりませんでした。ご飯に刺しておけば箸が汚くならないし、コロコロ転がらないので、とても便利な置き場所じゃないかと思いました。しかし後で、日本の仏教の習慣で死者にご飯を捧げる時に、茶碗に盛ったご飯に箸を突き刺すのだと学びました。それで、どうしてタブーなのかが分かりました。

 すべての国や宗教にタブーがあると思います。例えば、ユダヤ教の教えでは豚肉を食べるのがタブーだと教えています。また、モルモン教ではコーヒーを飲むのがタブーと教えています。キリスト教にもこのようなタブーがあるのでしょうか。

 もしクリスチャンではない人がクリスチャンの生活を観察したら、キリスト教にもタブーがあるんだと思うかもしれません。
 例えば、私はアメリカのクリスチャンの大学を卒業しましたが、その大学に入るために、まず契約書にサインしなければなりませんでした。その契約は、在学中はお酒を飲まないこと、結婚外の性行為をしないこと、そして踊らないこと、という契約でした。多くの人がこれを聞くと、キリスト教はこのようなことを禁止するのか、びっくりします。
 私の大学はとても保守的な教会に約100年前に設立されたので、大学のルールがとても厳しかったです。ほとんどすべてのクリスチャンの教会では、結婚外の性行為は禁止されていると教えていますが、踊ることが禁止される教会は現在ではとても少なくなっています。お酒に関するルールも教会によって違います。キリスト教のことをあまり分からない人にとっては、これがちょっと混乱させることになるかもしれません。あるクリスチャンを見るとタブーがたくさんあるように見えますが、他のクリスチャンを見ると、タブーが一つもないように見えるかもしれません。

 そもそもタブーとは一体何でしょうか。簡単に説明すれば、タブーは宗教的に禁止されていることや社会的に禁止されていることです。もし誰かがタブーを犯すと、そのことによって、その人がある意味で汚れることになります。その汚れるということが宗教的なことである場合は、清められるために浄化の儀式をしなければならないかもしれません。汚れることが社会的なことである場合は、周りの人があなたから離れていって、汚れた人のように扱われるかもしれません。

 宗教や社会にタブーがある場合、その宗教や社会の人々は、他の人に汚れた人と見られないように、一生懸命タブーを犯さないようにします。タブーを犯さないように気を付けていれば、周りから受け入れられるでしょう。

 しかし聖書の教えによると、このようなタブーの考え方は実は正しくありません。イエス様は、地上での奉仕の間に多くのユダヤ教のタブーを犯しました。イエス様が教えたことは、人の外側のことが人を汚すのではなく、自分の心から出るものが人を汚すということでした。

マルコによる福音書7:18-23
 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入ってくるどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出てきます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出てきて、人を汚すのです。」

 この箇所で、イエス様は当時のユダヤ教の学者と議論しています。イエス様が手を洗わずに食事をしていたので、ユダヤ教の学者達はイエス様に対して怒っていました。手を洗わずに食べるのは、その時代のユダヤ教のタブーでした。ユダヤ教の学者達が、神様に受け入れられるためにはきよさを保つことが必要で、手を洗わずに食べると汚れてしまうと信じていたからです。

 彼らに対するイエス様の返事は驚くべきものでした。イエス様は「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されるからです。」と言われました。つまり、人が食べ物を食べるという行為自体は、私たちが神様の前にきよいか汚れた者かには関係がないということです。神様は、人の腹にある物ではなくて、人の心にある物が大切と思っておられます。ユダヤ教の学者が大事にしていたタブーは、実は神様にとっては重要ではなかったということです。

 一方でイエス様は、汚れは外から人に入るのではなく、人の心から出ると教えています。神様は心の中の汚れを見ておられます。

 イエス様は、人間の行いは心にあるものが表に表れたものだと教えられました。例えば、イエス様の教えの一つに、もし誰かが兄弟に対して怒るなら、その人は殺人罪の裁きを受けなければならない、というものがあります。つまり、人に怒ることと人を殺すことは、神様の目には同じような罪だということです。その理由は、人を殺すという行為は心の中の怒りの表れだからです。人を殺す原因は、怒りを持った汚れた心です。神様が人間を拒む理由は、人間が悪い行いによって汚れているからではなく、人間が汚れた心から悪い行いをするからなのです。

 聖書は、神様が初めに一人の男アダムと一人の女エバを創造され、すべての人間はその二人の子孫だと教えています。神様がアダムとエバを創造した時、彼らはきよい心を持っていて、罪や苦しみは世にありませんでした。人間は神様との平安を持っていて、神様を礼拝し、神様に愛されていました。しかし、サタンがアダムとエバを誘惑して、彼らは神様を拒んで命令に背いてしまいました。アダムとエバは心の中で神様を拒んで、心が汚れてしまったのです。そしてアダムとエバの子孫も、汚れた心を受け継ぎました。ですから、私たち現代のすべての人間も汚れた心を持って、その汚れた心から怒りや、闘争や、傲慢や、色々な罪が出て、痛みと苦しみを起こしています。聖書はその心にある汚れを罪と呼んでいます。

 イエス様によると、人間に必要なことは心をきよくすることです。心がきよくないなら、良い行いをするのは無理だと教えています。しかし、人間は自分の力で自分の心をきよくすることができません。
 そこでイエス様は、人の罪を許して、人の心をきよくする働きをしてくださいました。イエス様の働きは人間を神様と和解させることなのです。

第一ヨハネ1:8-10
 もし自分に罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

 イエス様がもたらしてくださった希望は、私たちが神様から赦しを受けて、すべての不義からきよめられることができるということです。私たちはイエス様によって神様から新しい心を受けて、その新しい心によって、汚れた行いではなく、神様に対する愛が行動として表れ始めます。新しい心を与えられた人は、タブーを犯す恐れからではなくて、神様を愛する心から神様の命令に従うようになります。

 キリスト教にはタブーがたくさんあるように見えるかもしれません。しかしイエス様の教えは、クリスチャンが神様の命令に従う動機は恐れではなく、イエス様によってきよくされて、神様に従いたいという心を与えられたからです。クリスチャンにとって、神様に従うことは喜びであって、私たちを救ってきよくしてくださった神様に対する礼拝なのです。