神様が人間の心を開いてくださる

使徒の働き16:11-15

ロビソン・デイヴィッド
2020年09月27日

この世界を見わたすと、多くの人が色々な問題を抱えています。私たちの中にも、また周りにも、うつ病や不安や孤独を経験している人がいるかもしれません。そのような人は、人生の深い問いを心に抱えているのではないでしょうか。なぜ私は存在しているのか、私が生きている意味は何か、なぜ幸せでないのか。
 私たちクリスチャンは、こういった問いに対する答えをすべて、福音の中に見つけることができると私は信じています。イエス・キリストの福音は、神様が私たちを創造してくださった時、目的を持って造られたと教えています。福音は、私たちの創造者が私たちを愛してくださっていて、幸福に満ちた将来を用意してくださっていると約束しています。福音は、永遠に私たちを養ってくださる救い主に信頼することを教えています。福音によって、私たちは神の家族となり、神様を父と呼ぶ特権をいただきました。また福音によって、イエス様の教会の部分になることを通して、多くのクリスチャンの兄弟姉妹との交わりを与えられています。
 福音は、実は恐ろしい真実をも私たちに与えていますが、多くの人にとってその問題は、考えたくもないことです。その問題とは、人間の罪の問題です。私たちがどうしたら罪の赦しを得て神様と和解できるのかを示しているのは、福音だけです。福音を通して、神様の豊かな祝福のすべてが与えられています。人生の中の他の問題を解決するためには、まず初めに罪の問題を解決しなければならないのです。
 私たちが神様からこの素晴らしい贈り物である福音をいただいたように、私たちの家族、親戚や友人が福音を受け入れることを私たちは深く望んでいます。しかし多くの場合、私たちが家族や友人に福音を伝えて受け取るようにするのは無理なことに見えます。福音の内容を聞いても、聞こえないかのように受け入れない人が多いのです。聖書はこの問題についてよく語っています。
2コリント4:3-4
 この箇所から分かることは、サタンが信じない者に覆いを掛けているということです。サタンは、人々の心に覆いを掛けて、神様以外のことで心を癒して満足を得られると欺いています。サタンは人々に、素晴らしい仕事や素晴らしい配偶者を見つけることができれば、幸福を得ることができると吹き込んでいます。その結果、多くの人は長年の間、一生懸命に良い人間関係や良い仕事、お金や人からの評価を追い求めますが、多くの場合は、求めていたものを手に入れても、幸福になる代わりに失望を経験します。正しい幸福と充足は、福音を通して創造者である神様と良い関係を持つことを通してしか得られないものだからです。
 しかし、人の心に覆いが掛けられて、キリストの栄光に関わる福音の光が見えないなら、どうすれば福音が見えるようになるのでしょうか。それは、私たちにはできないことです。しかし神様は人の心を開く力を持っていて、福音を表すことができます。そうでなければ、誰も福音を信じることはできません。神様が御子イエス様を私たちの罪のために送って、十字架で死んで復活されたのは、サタンの欺きと人間の頑なな心に打ち勝つために他ならないのです。
 誰かの心の思いが暗くされていて福音の光が見えないような時、私たちは何をすべきなのでしょうか。心が福音に対して閉ざされているなら、心を開くために何ができるでしょうか。今日の箇所の中に、この問いに対する答えがあります。
 この箇所で、使徒パウロはルカとテモテと共に旅立って、神様の召しにしたがってマケドニアに行き、初めてヨーロッパに入って福音を伝え始めました。その旅の中で最初に留まった町がピリピでした。ルカによると、ピリピはマケドニア地方の主要な町で、植民都市でした。パウロはこの町で、安息日に同胞のユダヤ人に福音を伝えようとしました。この時パウロは、町の門の外に出て祈りの場所を探しました。そして川岸に行くと、女性たちが集まって来ていました。
 ユダヤ教の習慣では、ユダヤ教の会堂を設立するためには、ユダヤ人の世帯主が十人必要でした。世帯主が十人いなければ、会堂の代わりに祈りの場所を定めることになっていました。祈りの場所としてよく選ばれたのは、川や海の近くでした。そして安息日になると、ユダヤ教に関わる人たちが祈りの場所に集まってきて共に祈り、巡回教師がいる場合はその教えを聞くのが習慣でした。
 ピリピはユダヤ人が少ない町で、会堂がありませんでしたので、パウロは川岸の祈りの場所を見つけて、女の人達に出会いました。パウロは、ピリピに会堂がなく、数人の女性だけが神様を礼拝するために集まっていたことに、少しがっかりしたかもしれません。パウロ達は何か月も神様のみこころを求めて、福音を伝えられる場所を探した末に、やっとピリピに導かれて福音を伝える機会が与えられたのに、そこにいたのは女性だけの小さなグループでした。しかし神様は、この女性達の中からヨーロッパで最初のクリスチャンを起こし、教会を建て上げる計画を持っておられました。パウロがこの女性達に福音を伝えると、神様は素晴らしい働きを行ってくださったのです。
使徒の働き16:14
 今日はこの節にフォーカスしたいと思います。ここで神様がリディアという女性を救ってくださいました。リディアを救うために、神様は二つのことを通して働かれました。この二つのことは、人がクリスチャンになるために必要なことです。
1.    神様がリディアの心を開いた。
2.    パウロがリディアに福音を伝えた。
 まず、神様がリディアの心を開いたことについて考えましょう。このことは、聖書の一番深くて不思議な真実を表していると思います。それは、神様の働きなしには誰も福音を受け入れないという真理です。
 イエス様はヨハネの福音書6:44でこの真理をはっきり教えておられます。ここでイエス様は、「私を遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれも私の元に来ることはできません」と言われました。またヨハネの福音書6:37でイエス様は、「父が私に与えてくださるものはみな、私の元に来ます。そして、私の元に来るものを、私は決して外に追い出したりはしません。」と言われました。神様の力は、サタンの欺きや人間の頑なな心にはるかに勝っているのです。神様が呼ばれるなら、その人は必ずイエス様を信じます。
 私たちはこれまでの使徒の働きの学びの中で、神様が引き寄せる働きをよく見てきました。ピリポとエチオピア人の話では、神様が一連の奇跡的な出来事を通して、そのエチオピア人を救いに導いてくださいました。使徒パウロの改宗の話では、パウロがキリストの教会を迫害しようとする中で、イエス様がご自分をパウロに現わして、教会を迫害する者から教会を開拓する宣教師に変えてくださいました。そして、パウロが異邦人に福音を伝え始めた時には、使徒の働き13:48で、神様が永遠の命にあずかるように定めていた人達はみな信仰に入ったと記録されています。
 聖書には、ある人が救いを受けるかどうかは、神様が定めておられると書いてあります。ローマ人への手紙8:30で使徒パウロはこう言っています。「神はあらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人達にはさらに栄光をお与えになりました。」もし神様が誰かを召してくださるなら、その人はイエス様に信頼して、イエス様を通して義と認められ、永遠の命という栄光を与えられるのです。ここでパウロは、これらのことを未来形ではなく、すでに定められて完了したこととして書いています。さらにローマ人への手紙9:15では、神様が「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と宣言されたことが書いてあります。次の16節でパウロはこう結論づけています。「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、憐れんでくださる神によるのです。」何が人の望みによるのではないのでしょうか。それは救いを受けることです。神様が働かれなければ、だれも福音を信じて受け入れることはなく、誰も救いを受けられません。しかし神様は憐み深いお方なので、あらかじめ定めた人々に憐みを示して、救いに導いてくださいます。その結果、多くの人が救われるのです。
 神様の召しの意味は、人に救いを受け取る機会をくださることだけではなく、神様が召された人をご自分の元に連れてきてくださるということです。神様が召された人の心を変えて、福音を聞く時に分かって信じることができるように、人の心を開いてくださるのです。それはみことばの中に約束されています。
 エゼキエル書11:19で神様はこういう約束を下さいました。「わたしは彼らに一つの心を与え、あなた方の内に新しい霊を与える。わたしは彼らの体から石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」また申命記30:6にはこうあります。「主はあなたの心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、命を尽くしあなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」と約束されました。またエゼキエル書36:27でも、神様は次の約束を与えてくださっています。「私の霊をあなたがのうちにさずけて、私の掟に従って歩み、私の定めを守り行うようにする。」つまり、神様は人が福音を聞いて分かるように周りの環境を整えるだけではなくて、福音を必ず受け入れるように、心の中に働いてくださるのです。神様のその働きなしに福音を聞くなら、人が福音を受け入れることはありませんが、神様が働かれる時には、人は必ず福音を受け入れます。神様は、人がご自分の愛とあわれみに応答して、神様の豊かな祝福を受けるように、人の心を変えて、心を柔らかくしてくださるのです。
 エペソ人への手紙2:4-5で、使徒パウロはこう言っています。「しかし、憐れみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。あなた方が救われたのは恵みによるのです。」私たちは死んでいた者です。死んでいる人には何もできません。死んでいる人に福音を伝えても、福音を分かるどころか、聞くこともできないでしょう。しかし、すべての人は罪によってそのような状況に置かれています。私たちはみな、罪によって頑なな心を持っていて、サタンの欺きによって心に覆いを掛けられていました。その結果、誰も神様に対して心を開くことができない状況でした。みなが死んでいたようでした。しかし神様は豊かな憐みによって私たちに、福音を受けて、神様との和解をするために、霊的復活を与えてくださいました。神様の恵みは本当に深く、素晴らしいものです。
 続けて、人が救われるために必要な二番目のことを考えましょう。それは福音が伝えられることです。
使徒の働き16:14
 神様は、パウロの語る福音を通して働かれました。神様は、人が信仰を持つために心の中で働かれますが、その働きは福音を通してなされます。神様は福音なしで人を信仰に導かれることはありません。ローマ人への手紙10:17には「信仰は聞くことから始まります。聞くことはキリストについてのことばを通して実現するのです。」と書いてあります。神様は、ご自分が召される人には、その人に福音を伝える証人を必ず送ってくださいます。そして私たちクリスチャンは、福音を届けるために召されています。私たちは神様のメッセンジャーで、私たちの責任は人を福音に従わせることではなく、ただ福音を伝えることなのです。
 福音とはどういうことでしょうか。福音はとても深いメッセージで、一生をかけて福音の意味を完全に理解しようとしてもできないと思います。しかし、福音の中心的なことはとてもシンプルです。三つの基本的な真理があります。一つは私たちすべてが罪人で、すべての人が神様から赦しをいただくことを必要としているとういことです。二つ目は、イエス様が私たちの罪のために十字架の上でご自分の命を犠牲にして、神様から赦しを受ける道を作ってくださった、ということ。三つ目は、誰でも自分の罪を悔い改めてイエス様を信じれば、罪の赦しとキリストと共に生きる永遠の命を受ける。この三つが福音の本質です。福音の伝え方は色々ありますが、この三つが福音の中心です。
 私たちが、私たちの家族や友人がキリストを受け入れて救いの希望を持つことを見たいなら、二つのことができます。一つは福音を伝えることです。一度に全部を伝えなくてもいいです。神様が機会を与えてくださるごとに、福音の一つの部分を伝えることができれば十分です。救いを受けるためには、まず福音を聞かなければなりません。
 二つ目のことは、祈ることです。どんなに雄弁であっても、どれほど頻繁に福音を伝えても、神様が福音を聞いている人の心の中で働かないなら、その人は福音を受け入れられません。使徒パウロも、ユダヤ人の兄弟姉妹たちがイエス様を受け入れることを深く望んでいました。それでローマ人への手紙10:1では「私の心と願い、彼らのために神にささげる祈りは彼らの救いです。」と言っています。私たちの心の願いと祈りは、パウロと同じだと思います。私たちは、神様が誰を召されるか、いつどの人を召されるのかを知りませんが、神様のみことばの中に希望があります。
 ペテロの手紙第二3:9にこうあります。神様は「あなた方に対して忍耐しておられるのです。だれでもほろびることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」神様がそのような心を持っておられることをいつも覚えて、神様が私たちの家族や友人に、私たちに与えてくださったのと同じ憐みを与えてくださるように、私たちの心を開いてくださったのと同じように彼らの心を開いてくださるように、忠実に祈りましょう。