旧約聖書の概要①モーセ五書

ルカの福音書24:25-27

ロビソン・デイヴィッド
2021年08月22日

ルカの福音書24:25-27

「そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」

 今日から4回シリーズで、旧約聖書全体を通した学びを始めようと思います。旧約聖書を4つの区分に分けて、1回ずつ学んでいきます。今日が1回目、2回目は10月、そして3回目と4回目は11月になります。第1回目の今日は、創世記から申命記までの最初の5冊、いわゆる「モーセ五書」と呼ばれる部分を見ていきます。2回目は、ヨシュア記からエステル記までの歴史書を見ていきます。 その後、ヨブ記から雅歌までの詩集を見ていきます。最後にイザヤ書からマラキ書までの預言書見ていきます。このように聖書を大きな部分に分けて見ていくと、旧約聖書の全体的なメッセージが見えてきます。今日の聖書箇所は新約聖書の箇所ですが、ここでイエス様は、モーセやすべての預言者たち、つまり旧約聖書全体は、自分に関して書かれたのだということを明らかにしておられます。ですから私たちは、この旧約聖書の概要シリーズを通して、旧約聖書がどのように私たちにイエス・キリストを指し示しているのかを学んでいきたいと思います。

 聖書全体は、2つのポイントに集約されます。それは、「与えられた約束」と「約束の成就」です。旧約聖書の中で、神様はたくさんの約束をしていますが、新約聖書になって初めて、御子イエス様をこの世に遣わされて、その約束が最終的に実現されます。旧約聖書の最初の5冊は、モーセによって書かれ、一つのまとまりを成しています。 ユダヤ人にとっては、聖書の中で最も重要な書物です。今日はまず、この5冊の本に書かれていることをまとめてみましょう。

 

創世記

 創世記1章1節で、神は最も深遠な問いに対する答えを明らかにしています。世界はどこから来たのか?創世記1章1節によると、初めに、何かが存在する前に、神がいました。この唯一永遠の神がすべてを創造しました。そして、その数節後の創世記1章26節で、聖書はおそらく2番目に大きな疑問に対する答えを明らかにしています。それは、私たちが人間にとって誰なのかという疑問です。私たち人間が、神に似せて創られた存在だということです。私たちは、神ご自身を表わし、神の聖さと権威を反映するために創造されました。また私たちは、仕える者としても、支配する者としても創られました。神に仕える者として、また神の創造物の残りの部分を支配する者として造られたのです。私たちは、創造主と完全に調和して生きるように創られました。

 創世記の次の11章では、苦しみの起源、結婚、家族、文明や言語、その他多くの深遠な真理が明らかにされています。その中でも、創世記3章では、聖書のもう一つの基本的なテーマを見ることができます。それは罪の起源です。創世記3章で最初の人アダムとエバは、神の命令を拒否し、神の善意を疑うことを選びました。神が定められた道ではなく、自分たちの道を歩むことを選びました。神の御姿を表わし、神の栄光を反映することに満足するのではなく、神から離れて自分の栄光を得ようとしたのです。この最初の罪は、聖書の残りの部分の背景となっています。創世記の残りの部分では、神は私たちを拒絶するのではなく、私たちを回復させ、贖う計画を立て始めています。

12章では、神はまずアブラハムという人を呼び、彼を神の祝福を受ける大いなる国民にすると約束します。創世記22章18節を見って下さい。ここでは、神はアブラハムの子孫を通してすべての国民が祝福されることを約束しています。2,000年後、イエス様はこの約束を成就されました。イエス様はアブラハムの子孫として生まれ、罪と死を克服し、すべての民に神様の祝福をもたらすためにこの世に来られました。

出エジプト記

旧約聖書の第2冊目は、出エジプト記です。出エジプト記の冒頭では、アブラハムの子孫が神様の約束通りに偉大な民に成長したものの、その後エジプトで奴隷になってしまったことが書かれています。出エジプト記には、彼らを奴隷状態から救い出すための神の力強い働きが記されています。当時のエジプトは世界一の強国であり、ファラオが支配していましたが、神様はご自身の力がファラオの力よりも無限に大きいことを示されました。ファラオが神の民を解放することを拒んだので、神はエジプトの民を10の災いで苦しめ、その度合いを増していきました。最後の災いでは、神様は死の天使を送って、エジプトの長子の命を奪うと警告されます。しかし、神様はモーセに命じて、イスラエルの人々に、それぞれの家で子羊を犠牲にして、その血を家の戸に塗るように言われました。子羊の血を塗った家は、死の天使から救われるというのです。この出来事が、現代に至るまでイスラエルの最も重要な祭りの一つである「過越の祭り」の基礎となりました。そののち、イエス様は弟子たちと過越の祭りを祝った翌日に殺されます。

小羊の血で家がおおわれた者には神が裁きを加えなかったように、キリストの血でおおわれた者はすべて、永遠に神の裁きを受けることはありません。また出エジプト記には、神様がイスラエルの人々に律法を与えたことも書かれています。

レビ記

 旧約聖書の第3冊目の書物であるレビ記には、ユダヤ人がどのように神を礼拝すべきかが具体的に記されています。レビ記を通して、私たちは、神は聖なる方、純粋な方であり、神の民もまた絶対的にきよくなければならないことを理解します。このきよさは、イスラエルの人々が何を食べたり触ったりしてよいか、また、これらの規則に従わない場合、どのように自分をきよめなければならないかという、多くの規則によって表されています。また、レビ記には、人間の罪を償うためには、動物を犠牲にしなければならないとも書かれています。神様は完全に義なる方なので、どんな罪も見逃すことはありません。罪を犯した人の代わりに罪のない命が犠牲になって初めてその罪が赦されるのです。

 しかし、レビ記をよく読むと、動物の犠牲だけでは人の罪を完全に覆すことはできないことがわかります。イスラエルの民は、罪を犯した時だけでなく、毎年いけにえを捧げるように命じられているからです。これは、これらのいけにえでは罪が完全には償われないことを示しており、最終的に私たちの罪を取り除き、神に受け入れられるようにするためには、より偉大で優れたいけにえが必要であることを示しています。このいけにえは、イエス様が来られ、十字架上で死なれたときにささげられました。イエス様は神様の完全な、罪のない、きよい一人子でした。イエス様は私たちの罪を背負い、私たちが神様の赦しを受けられるように、私たちの代わりに死んでくださいました。

民数記

 次の民数記の主なテーマは、神の民がいかに神を信頼せず、神の命令に従わなかったか、その結果、神の約束を受けられなかったかということです。モーセの世代は、神がその力を奇跡的で、否定する余地がないほど圧倒的な方法で示すのを見ました。彼らは、神様がエジプトの敵に与えた災いを見、昼は雲の柱、夜は火の柱で彼らを導くのを見ました。神様が紅海を分けて乾いた土地を歩けるようにしてくださったのを見ました。神様が天からのパンと岩からの水を与えてくださるのを見ました。ホレブ山で神の栄光が降りてくるのを見ました。

 しかし、それにも関わらず、彼らは何度も何度も神に反抗し、神が自分たちの道を守ってくださることを疑ったのです。その結果、神様はその世代が約束の地に入ることを禁じ、代わりにモーセの世代が全員死ぬまで、40年間荒野をさまよいました。そして、彼らの子供たちが約束の地に入ることを許されました。

申命記

 次の申命記というのは、「第二の律法」という意味で、新しい世代に与えられた神の律法の繰り返しが書かれています。

申命記の最後は、神の民への告発で締めくくられ、神を信頼し、神の命令に従うように勧められています。ここでも神様は、民が律法を守り従うならば多くの祝福を得るが、神を拒絶して他の神々に仕えるならば多くの呪いを与えると約束しています。モーセは死ぬ前に、いつの日か神が自分のような預言者をもう一人遣わすことを預言します。この預言者は、神と神の民の間に立ち、彼らのために祈り、神が彼らを憐れんでくださるように願います。この預言者は、民と神との間の仲介者となるのです。

 この預言は、イエス様において実現しました。イエス様は、神様の最も偉大な預言者として来られ、神様の言葉を教えてくださいました。またイエス様は、ご自身が預言者以上の存在であることを証明され、ご自身で罪を背負い、ご自身の命をもって私たちの罪を贖ってくださいました。

 

 ここまで急ぎ足で、聖書の最初の5冊の本を簡単に要約してきました。この最初の5冊の要約から、私たちは3つの重要な教訓を学ぶことができると思います。

1.神はご自身の民を贖う計画を持っている。


 神様は、私たちを拒絶し、直ちに裁くのではなく、神様を知り、神様を愛し、仕え、神様の祝福を受けるために贖う計画を展開されました。私たちは、神が忍耐強い方であることを学びます。神の民が何度罪を犯してそむいても、神様は彼らを見捨てることなく、ご自分のもとに立ち返り、従うように呼びかけるのです。

 
2.神は聖なるお方であり、私たちが聖なる者となるためには、私たちの罪が贖われなければならない。

 

 神様は完全できよいお方です。不純なものは神様の前に立つことすらできないほど聖なる方です。神様は、ご自身の民もこのように聖なる者であることを求めておられます。しかし、私たちは皆、罪のために、不純な者になってしまいました。神様は、罪を犯した者は必ず罰せられるべきだと宣言されました。神様は完全に正しい方ですから、すべての罪を罰するのは神様のみこころにかなうことです。しかし、罪を犯した人を回復させ、ご自身の愛を示すことも望まれています。そこで、私たちを御前に迎え入れるために、神様は私たちの罪を贖う方法を用意されました。神様は、罪を犯した人の代わりに無実の者が罰を受けるのは当然だと考えました。旧約聖書の最初のモーセ五書では、罪人の代わりに純粋で汚れのない子羊を犠牲にするという神の命令を通して、この考えを示しています。これは、私たちがより良い犠牲を必要としていることを示すためです。神の子羊と呼ばれたイエスは、罪のための究極の身代わりの犠牲となりました。

 

3.神の民が神の律法を守らなかったことは、神と人との新しい関係の必要性を示している。

 

 しかし、神の民は、神が要求することを実行できなかったことが、ほとんどすべてのページに書かれています。

このようにモーセ五書は、神が人間に神の律法を与えるだけでは不十分であることを明らかにしています。もし私たちと神との関係が、神様の命令を守れるかどうかにかかっているなら、私たちは決して神様に受け入れられることはできません。モーセ五書は、神様が将来、私たちが神様に受け入れられるための新しい、より良い方法を提供することを教えています。私たちは、子羊よりも優れた犠牲、アロンよりも優れた大祭司、モーセよりも優れた預言者を必要としています。私たちは、自分の行いではなく、私たちに代わって働いてくださる方への信仰に基づく、神様との新しい契約を必要としているのです。

 イエス様は、その新しい契約を結ぶために、またモーセ五書に啓示されていた希望をすべて実現するために来られました。モーセ五書は、聖書のすべての書物と同様に、私たちをイエス・キリストへと導くものです。新約聖書になるまでイエス様の名前は出てきませんが、旧約聖書のすべてのページが、イエス様の到来を待ち望むように導いています。モーセ五書を通して、私たちは、世界の創造や神の民への奇跡的な保護において示された、神の壮大な力と栄光について学びます。一方で、人間の弱さや不純さについても学びます。私たちは、主の愛を受けるには全くふさわしくない存在であることを知ります。しかし、神は私たちを完全に拒絶するのではなく、私たちが救われるための完全な道を永遠に提供することを約束してくださっているのです。モーセ五書は、私たちが来るべき救い主を求め、喜んで迎え入れ、創造主のもとに戻る道を見つけることができるよう、イエス・キリストを指し示しています。