聖書やキリスト教にまったく触れたことのない人に、どうやって福音を説明すればいいでしょうか。今日開いた箇所の中に、使徒パウロとバルバナがそのような問題に直面した場面が出てきました。最初の宣教旅行の中で、パウロとバルバナはリステラという町に行って、ギリシャの神々を礼拝する人々に出会いました。彼らは聖書の教えやキリストの教えに触れたことがまったくありませんでした。そこでパウロは、福音を説明するために、聖書を引用するのではなくて、神様がご自分の創造された世界の中にご自分を表されたということから話し始めました。
その中でパウロは、私たちが創造されたものを見る時に、創造者の神様について分かることがたくさんあるということを伝えました。聖書は神様のみことばなので、聖書を通して私たちは神様を最も明確に知ることができますが、神様は創造されたこの世界を通しても、ご自分を表してくださっています。
ローマ人への手紙1:19-20
ここで使徒パウロは、聖書を読んだこともクリスチャンに会ったこともない人でも、被造物を通して神様のことがはっきり認められるので、神様を信じるべきだ、と言っています。ですから、パウロがリステラの人々に語りかけた時も、聖書を引用することもなく、イエス様のことについても何も言いませんでした。その代わりに、聞く人にとって分かりやすい簡単なメッセージをしました。彼らに対する最初のメッセージの中でパウロは、福音を最初から最後まで説明することをせず、神様はどのようなお方であるのかについて、大切なことを一つだけ説明しました。
同じように私たちも、友人や家族に福音を伝える時、一度に福音を全部説明しなくてもいいと思います。一つの機会に福音の一つの部分を説明して、別の時にまた他の部分を説明するのも一つの方法です。大事なのは、その時その時に御霊の導きに従うことです。また、パウロは直接聖書を引用しませんでしたが、パウロが語ったことはすべて、聖書の教えに基づいたことでした。ですから私たちも、聖書をしっかり学んで、聖書を深く知っていくと、必ず聖書を引用しなくても、聖書が表した真実を人が理解できる方法で説明できるようになります。
使徒の働き14:8-14
リステラは現在のトルコにあった田舎町で、町の中にはユダヤ教の会堂はありませんでした。リステラの人は多神教で、彼らは生活が守られるように色々な神々を礼拝したり、生贄を捧げたりしていました。
ですから彼らは、神様がパウロを通して足の不自由な人を癒したのを見ると、パウロとバルナバのことを神々だと思い込みました。そして、奇跡を行った神々に生贄を捧げないと罰が当たると思ったかもしれません。
パウロとバルナバは、リステラの人々が自分たちを礼拝し始めたのを見て、とても動揺しました。二人の目的は、すべての人がイエス様を通して神様の救いを受けて、神様だけを礼拝するようになることだったからです。リステラの人が自分たちを礼拝するのは、目指していたのと反対の結果だったのです。ですから、パウロはリステラの群衆の中に飛び込んで行って、神様についてのメッセージを語り始めました。この短いメッセージが15-17節に書いてあります。
パウロが最初に伝えたことは、自分たちが拝まれるためではなく、福音を宣べ伝えるために来たということです。パウロのメッセージは良い知らせです。これはすべての人が聞く必要のあるメッセージです。これは人生を変えるメッセージです。誰でもこのメッセージを聞いて、イエス様を受け入れるなら、人生が良い方向に大きく変わります。
しかし、多くのリステラ人はパウロのメッセージを聞いて、これは良い知らせではないと思ったかもしれません。むしろ正反対の反応だったかもしれません。パウロの福音、パウロの良い知らせは何でしょうか。15節で、パウロはこう言っています。
「あなた方がこの空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものをつくられた生ける神に立ち帰るように福音を宣べ伝えているのです。」
リステラ人がやっていた空しいこととは何でしょうか。それは彼らの宗教でした。そしてそれは、彼らにとって最も大事なことでした。リステラ人が偽りの神々に生贄を捧げていることについて、パウロはそれは空しいことだと伝えましたが、多くのリステラ人はパウロのメッセージをとても失礼だと思ったかもしれません。しかし、パウロによると、それは実は福音、つまり良い知らせなのです。なぜでしょうか。
それは、リステラ人が望みを置いて信頼していたのは、存在しない神々だったからです。彼らは毎日、聞くことのできない神々に祈ったり、助けることのできない神々に生贄を捧げたりしていました。その神々を礼拝しないと悪いことが起こると信じて、いつも、存在しない神々を恐れて暮らしていました。しかし実は、リステラ人が礼拝していた神々は何もすることができませんでしたから、捧げられた祈りや生贄、礼拝、時間、お金のすべては、本当に空しいことでした。リステラ人の神々は人間が作ったもので、命のないものでした。しかしパウロが彼らに伝えたのは、生ける、正しい神がおられるということでした。リステラ人は正しい神を礼拝せず、偶像を礼拝して生ける神を怒らせたのに、生ける神に立ち帰るチャンスが与えられました。それが福音でした。良い知らせでした。パウロの語った福音に、リステラ人が死んだ神々を捨てて、生ける神に受け入れられる望みが示されていました。
パウロのメッセージは、リステラ人に生ける神を紹介するメッセージでした。この短いメッセージの中に、神様について三つのことが表されています。
1. 神様はすべてを創造された方である
2. 神様はすべての国々を支配する方である
3. 神様は良いお方である
まず15節で、パウロは生ける神がどのような神なのかを説明しています。生ける神は、天と地と海、またその中のすべてのものを作られた神です。神様が生ける神と呼ばれる理由は、他の神々が死んでいて、真の神様が生きておられるというだけではなくて、神様がすべての生ける者を創造されたからです。神様はご自分が生きておられるだけでなく、命を創造されました。
リステラ人はこのような神を聞いたことがありませんでした。彼らはたくさんの神々を信じて、ある神は土地の神様、ある神は空の神様、また別の神は海の神様、と信じていました。たくさんの神々がいると思っていたので、平穏な人生を送るために、なるべく多くの神々をなだめようとして色々な神々を礼拝しました。
しかしパウロは彼らに、唯一の生ける神がすべてのものを造られたと伝えました。この唯一の神が、天と地と海、またその中のすべてのものを作られ、すべての人間もこの神によって創造されました。パウロのリステラ人へのメッセージは、この神に立ち帰るべきだということでした。
次に、16節を見て下さい。
この意味は、パウロの神様がすべての人の神様だということです。神様の許しなしには、誰も何もすることができません。神様はしばらくの間、あらゆる国の人々に自分の道を歩むこと、つまり空しい偶像礼拝をすることをお許しになりました。神様はそのことを承認したわけではありませんが、人々がそれをするのを妨げなかったということです。
しかし、神様のタイミングで、あらゆる国の人々がご自分に立ち帰るように、ご自分の御子イエス様を地上に送って、救いのメッセージを届けてくださいました。神様はすべての国に対して目的を持っておられます。そして日本に対しても目的も持っておられると確信しています。
最後に17節で、パウロは神様が良い方であることを宣言しました。
神様はすべてを創造されたお方で、あらゆる国々の主権者であられる方です。神様が命令されれば、私たちは従わなければなりません。では人間が従うべき生ける神はどのようなお方でしょうか。リステラ人が礼拝していた神々は、人間のような特性を持っていました。彼らが信じていたのは、簡単に怒る神、性的衝動に支配されている神、嘘をつき、人を欺く神、嫉妬に満ちた神、争いに満ちた神でした。もし生ける神がそのような神だったら、パウロのメッセージは良い知らせとは呼べないと思います。しかしパウロのメッセージの最後のポイントは、生ける神はすべての人に良いものを下さり、それを通して自分が良い方であることを表してくださったお方だ、ということでした。
あらゆる人々が生ける神を拒んで、恐ろしい罪を犯したのに、神様は私たちをすぐに罰することをせず、代わりに祝福を与えてくださいました。リステラ人も、気付いていなかっただけで、実は生ける神をもう見ていたのです。彼らの人生の中のすべての良い経験は、自分を創造してくださった生ける神様が与えてくださったものでした。天から雨を与えて、作物を育ててくださるのはこの神様です。私たちがおいしい食べ物を楽しむ時、神様が与えてくださった祝福を楽しんでいます。自然を散歩して、美しい海や山や森を見る時、私たちは世界を造られた神様の働きを楽しんでいるのです。人生の中のすべてのうれしい経験は、生ける神が与えてくださったものです。
多くの人が毎日神様の祝福を経験していますが、その祝福を与えてくださった神を知らないで過ごしています。福音は、誰でもこの神を知ることができるということです。神様の方から私たちが受け入れられる方法を示して、ご自分の家族としてくださるのです。この神が、すべての人が空しい人生から離れて、喜びと希望と目的に満ちた人生を受け取るように、招いてくださっています。神様はご自分の良さを通して、あらゆるの国の人々がご自分に立ち帰ることを根気よく待ってくださっているのです。それは本当に良い知らせですが、神様の良さを拒み続けるなら、神様の怒りを受けることになります。
クリスチャンは、私たちに良い祝福をくださる神様に仕える喜びを持っています。神様が祝福を与えてくださる理由は、私たちの心をご自分に向かせるためです。神様は私たちに、ご自分が創造された世界の喜びを禁止するのではなく、神様の創造を喜ぶこと、そして神様に従うことを通して、神様ご自身に近づけるようにしてくださったのです。
リステラ人は毎日神様の祝福をいただいていましたが、空しい神々に感謝し、命のない神々を礼拝していました。生ける神のかわりに、神様が造られたものを愛しました。このような空しい生き方は人を本当の神様から離れさせ、神様の良さから離れさせて、自分の創造者を知る喜びを経験できない状況に陥らせます。私たちはクリスチャンとして、すべての人が空しい人生を離れて、天と地と海またその中のすべてのものを造られた生ける神に立ち帰るように、福音を伝える特権をいただいているのです。