旧約聖書の概要②歴史書

ロビソン・デイヴィッド
2021年10月 3日

 今日は、旧約聖書の概要の第2回です。前回から少し時間が経ってしまいましたが、前回は、旧約聖書の中でも「モーセ五書」と呼ばれる、最初の5冊の書物を見ました。モーセ五書では、神が世界を創造し、人間が、神の愛を受け、神に栄光をもたらすために、神に似せて創造されたことを見ました。しかし、人間は神を拒み、この世に罪をもたらしました。また、神様は完全に聖なる義のお方であり、罪を見逃すことはないということも学びました。しかし、神はその偉大な愛といつくしみによって、人間が罪のない命の犠牲によって赦しを受けることができるように計画を立てられました。神様はアブラハムを選び、ご自身との特別な関係を持つ民の父となるという、素晴らしい約束を与えられました。神様は、アブラハムの子孫の一人を通して、世界に祝福をもたらすと約束されたのです。これは、私たちが赦しを得るために、命を捧げる救い主の希望を指し示しています。

 第2回の今日は、旧約聖書の次の大きな部分である歴史書を見ていきます。これらの書物は、アブラハムの子孫であるイスラエルの人々の歴史を記したものです。この歴史書には12冊の本があり、イスラエルが神様に約束された土地に入ってから、神様への不従順のためにそこから追い出され、イスラエルの残りの者が戻ってきて再び神様に従おうとするまでの約1,000年の歴史が記されています。聖書をこのように大きな部分に分けて見ていくと、いくつかの重要なテーマが見えてきます。

 モーセ五書の最後の書物である申命記では、神様はご自分の民に対して、もし神の律法を守るならば、彼らを守り祝福するが、もし神を拒むなら、彼らを呪い追放するという約束を与えられました。今日の歴史的な書物を読み始めると、イスラエルが神の祝福を受けることができるのか、それともアダムとエバのように失敗してしまうのか、ということが気になるところです。

 また、これらの書物の中で、神様はご自身の贖罪の計画の中で、2つの重要な新しい部分を紹介しています。一つは永遠の王の約束であり、もう一つは神殿です。まずヨシュア記ですが、これは申命記のすぐ後に続くイスラエルの物語です。モーセが亡くなり、彼の助手であったヨシュアがイスラエルの精神的また軍事的リーダーとなりました。40年間の砂漠での放浪の後、イスラエルの民は約束の地にたどり着き、神の指揮の下(もと)、ヨシュアはイスラエルの民を率いてその地を征服します。最後に、イスラエルはその地を手に入れましたが、神が命じたように元の住民をすべて追い出すことはしませんでした。ヨシュアは死を目前にして、イスラエルが危険な状況に直面していることを知ります。イスラエル人の多くは、すでに征服した民族の神々を拝み始めており、奴隷にされていたエジプトの神々を拝んでいる者もいました。彼らをエジプトから導き出したアブラハムの神を崇拝していたのは、一部の人々だけでした。

ヨシュア記

 ヨシュアは最後の演説で、イスラエルの人々に次のように呼びかけています。ヨシュア記24章14-15節「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。15主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」

士師記

 次の士師記では、悲しいことに、ヨシュアの警告にも関わらず、神の民の多くがまことの神から離れ、偶像に仕えるようになってしまっていたことがわかります。士師記17章6節は、イスラエルの歴史のこの部分で起こったことを要約しています。「その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」これはイスラエルの歴史の中で非常に暗い時代でした。イスラエルの人々はここから325年間にわたって、神に反抗し、神の保護を失って敵に虐げられ、悔い改めて神に救われるというサイクルを繰り返すことになります。このことから、神様の贖いの計画において、神の民を導き、神の正しい支配と権威の下(もと)に民を統一する王が必要であったことがわかります。

ルツ記

 士師記の後には、ルツ記が出てきます。これは短い書物ですが、神様の忠実さを示す美しい物語です。士師たちの時代に起こったこの物語は、イスラエルの多くの人々が神様に不忠実になっていたにもかかわらず、主を信頼する者たちが残っていたことを示しています。ルツ記は、貧しい若い未亡人が、亡くなった夫の裕福な親戚に助けられ、恋に落ちて結婚するという物語です。物語の最後には、ルツの曾孫(ひまご)が、神の民を導いて神に忠実に仕える王になることがわかります。

サムエル記・列王記

 次に続くのが、2つのサムエル記です。これらの書物は、イスラエルの最後の士師であるサムエルが、イスラエルの最初の二人の王、サウロとダビデを任命したことにちなんで名付けられています。サウロは、ある時は神に従い、ある時は自分の道を行くという不安定な支配者でした。しかし、ダビデは神の心に適(かな)う者と思われました。ダビデのリーダーシップのもと、イスラエルは神に忠実に仕え、多くの勝利を与えられます。ダビデの統治の最中(さいちゅう)、神は第二サムエル記7章12-13節で、彼に非常に特別な約束をします。「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

 ここで神様は、ダビデの子孫の一人が永遠に王として支配することを約束されています。神の民には、彼らを導き、神に忠実であるように助けてくれる王が必要だったからです。ダビデはこの役割をうまく果たしましたが、完璧ではありませんでした。後年、ダビデは不倫をし、それを隠すために友人を殺害するなど、神の基準に沿わない行動をとってしまいます。ダビデの罪のために、イスラエル王国は内戦状態に陥りました。ダビデがイスラエルが必要としていた完璧な王ではなかったことは明らかです。完全な王はもっと後(あと)になって現れます。

 ダビデの息子ソロモンの最も重要な功績は、エルサレムに神の神殿を建てたことでした。この壮大な建物は、神がイスラエルの人々の中に住み、彼らを守り、祝福するという約束を表すものでした。ソロモンが神殿を建て始めると、神様はもう一つの重要な約束をされます。第一列王記6章12-13節にこうあります。「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟(おきて)に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。13わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」

 ここで神様は、イスラエルの王であるソロモンが神の定めに歩み、神の掟に従うならば、イスラエルの民の間に住まわれると約束されました。イスラエルの首都エルサレムに建てられたこの神殿は、神様とイスラエルの人々とのこの特別な関係を象徴するものでした。神様は、王が神に忠実である限り、神の民の中にとどまることを約束されました。神の民には、神の命令をすべて守り、そうすることで神が彼らの中にとどまるという約束を受けることができるために、忠実で完全な、永遠の王が必要でした。歴史書を読み進めると、ダビデやサウロと同じように、ソロモンも、そのような王になることはできなかったことが分かります。ソロモンも、年を重ねるにつれ、神に忠実に従うことを怠り、かえって神から離れて、周囲の国々の偽(いつわ)りの神々を礼拝するようになっていったのです。

 そして残念ながら、ソロモンの死後、事態はさらに悪化します。ソロモンの息子レハブアムの時代、イスラエルは再び内戦に突入し、ユダとイスラエルの2つの国に分裂してしまいます。ユダ王国はダビデの子孫を王とし、イスラエルでは様々な軍人や政治家が、次々に権力を握っては倒されるのを繰り返していくことになります。そして最終的には、イスラエルもユダも神を拒絶してしまいます。罰として、神はご自分の民から祝福を取り除き、彼らを敵の手に渡されます。その結果、イスラエルもユダも敵に征服され、遠くバビロンの国に捕虜として連れていかれることになります。

歴代誌

 第二歴代誌の最後36章15~19節には、次のような言葉が記されています。「15彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに早くからたびたび使者を遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の住まいをあわれまれたからである。16ところが、彼らは神の使者たちを侮(あなど)り、そのみことばを蔑(さげす)み、その預言者たちを笑いものにしたので、ついに主の激しい憤りが民に対して燃え上がり、もはや癒されることがないまでになった。17主は、彼らのもとにカルデア人の王を攻め上らせた。彼は、聖所(せいじょ)の中で若い男たちを剣(つるぎ)で殺し、若い男も若い女も、年寄りも弱い者も容赦しなかった。主は、すべてのものを彼の手に渡された。18彼は、神の宮(みや)の大小(だいしょう)すべての器(うつわ)、主の宮(みや)の財宝と、王とその高官たちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。19神の宮は焼かれ、エルサレムの城壁は打ち壊され、その高殿(たかどの)はすべて火で焼かれ、その中の宝としていた器(うつわ)も一つ残らず破壊された。」

 神の民とその王が神を捨てたので、神様はバビロンを起こして彼らを征服し、彼らのために建てられた神殿を破壊されました。それにもかかわらず、第2歴代誌の最後は、70年の後、神様が民を自分の土地に帰すことを許されるという、もう一つの約束で終わります。

エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記

 次のエズラ記、ネヘミヤ記、エステル記の3冊は、旧約聖書のイスラエルの歴史の最後の部分を記しています。神様が約束された通り、イスラエルの人々が捕らえられて国を追われてから70年後、少数の人々が戻ってきて、神の神殿を再建することが許されます。神殿が再建されると、神の栄光を表す雲が神殿に降りてきて、神様が戻ってきて共に住まわれることを人々に確信させました。律法学者だったエズラはバビロンから来て、エルサレムに戻った人々に神の律法を教えました。これは、神の民が過去の失敗から学び、ついに神に忠実に仕えるようになることを願ってのことでした。しかし、神の民のすべてがイスラエルの地に戻ったわけではなく、多くの人々がバビロンに残ることを選びました。

 この時代はバビロンに代わってペルシャが支配しており、ペルシャ王に仕えるハマンという悪人(あくにん)が、ユダヤ人を根絶やしにする計画を立てていました。しかし、神様はエステルというユダヤ人の少女をペルシャの王妃に引き上げ、エステルは勇気を持って王に自分の民を救ってくれるように頼みます。最後に、ネヘミヤ記では、ユダヤ人難民の第二陣がエルサレムに戻り、敵から身を守るために城壁を再建したことが書かれています。

   エステル記が歴史編の最後の本ですが、ネヘミヤ記で、旧約聖書の歴史の締めくくりがなされています。それは、神の民がまたしても神に不忠実であったことを示す、悲しい結末です。旧約聖書の物語は、神が約束した土地に住む少数の神の民が、神に忠実であろうとしながらも、しばしば失敗しているところで終わります。旧約聖書の物語は、神が与えた永遠の王の約束が果たされず、神の民がその王が来て自分たちを救ってくれることを切望しているところで終わります。

 私たちがこのイスラエルの歴史から学べる教訓は、3つあると思います。

 

1. 神の民には、完全な永遠の王が必要。
 

 イスラエルの歴史を読んでいくと分かることは、イスラエルの民の神への忠実さは、王の忠実さと結びついていたということです。イスラエルに良い王がいた時代には、人々は神に忠実で、神は彼らを祝福しました。しかし、神に背を向ける王の時代には、人々は同じことをして、神の怒りを買ってしまいました。神様は、ダビデの家系からいつの日か永遠に支配する完全な王が現れることを約束されました。この王は、神の民が永遠に神を忠実に礼拝するように導くというのです。そしてイエス様こそが、神の民に約束された永遠の王です。イエス様は、神様がご自分の民を永遠に支配するために選ばれた、ダビデの子孫なのです。イエス様は十字架で死なれた後、よみがえり、今は天で神様の右で支配しておられます。イエス様は今も生きておられ、イエス様に信仰を置くすべての人々の上に君臨しておられます。その完全な忠実さによって、イエス様に従うすべての人に、神様の祝福が保証されています。


2.神の民には、よりすぐれた神殿が必要。

 

 神殿は、エルサレムにある物理的な建物でしたが、民の中に神がおられることを象徴するものでした。しかし、神の民はそれを捨て、イスラエル全土の丘や高台(たかだい)で、偽りの神々にいけにえを捧げ続けたのです。その結果、神様はバビロン王国を送ってご自分の民を捕らえ、神殿を破壊されました。これは、神様が罪深い民の中に住むことを拒否されることを象徴する出来事です。

 しかし、イエス様は、物理的な建物ではなく、神の民そのものを神の神殿にすることで、私たちの中に神を取り戻してくださいました。つまりイエス様は、ご自身に従うすべての人々からなる教会を、神の神殿とされたのです。教会の建物ではなく、教会のメンバーである人々をです。教会の頭(かしら)であるイエス様は、私たちの中に神様の臨在をもたらします。そして、クリスチャン一人一人に聖霊を送ってくださいます。聖霊は私たちの中に宿り、私たち一人一人を神の神殿にしてくださいます。神の臨在は、もはや物理的な場所に縛られることなく、また私たち自身の善良さに依存することもなく、私たちの中に、そして一人一人の中に住まわれ、私たちがどこにいても、常に共にいてくださるようにしてくださったのです。

 

3.神様は、私たちが忠実でない時でも忠実であられる。


 旧約聖書で神様が与えられた約束は、神の民が神に忠実であり、神のみを礼拝するなら、彼らを祝福し保護するが、もし彼らが神の律法に従わず、他の神々を礼拝するならば、彼らを呪い、罰するというものでした。歴史書の中には、神の民が神の律法に従わなかった1,000年の歴史が描かれています。その結果、神は何度も神の民を罰しましたが、完全に見捨てることはありませんでした。神の罰は、愛に満ちた父親のしつけのようなもので、子供たちに正しいことを教えるためのものでした。神はご自分の民を罰するたびに、彼らを回復させ、ご自分のもとに戻されました。

 イスラエルのように、私たちはしばしば神様に忠実ではありません。私たちはしばしば神様に背を向け、従わないことがあります。しかし、私たちが神様に不忠実であっても、神様は私たちに忠実であり続けてくださるお方(かた)なのです。

 イスラエルの歴史は、民が失敗を繰り返すとても悲しい歴史ですが、ある意味ではとても希望に満ちた歴史でもあります。それは、人間がどんなに罪深く、裏切りを繰り返しても、神ご自身は忠実で慈悲深く、ご自分の民を何度でもご自身のもとに呼び戻してくださった歴史でもあるからです。神様は常に公正に行動し、罪を犯した者を罰します。しかし同時に、神の赦しを求め、神に従うことに立ち返る者を見捨てることは決してないのです。

 神の民イスラエルの物語は、私たちがイエス・キリストを必要としていることを示しています。イエス様なしでは、私たちは神様に受け入れられることはできません。イエス様の犠牲なしには、神様は私たちの罪を赦されないのです。旧約聖書の歴史書は、私たちがいかに罪深い存在であるか、また、私たちとの関係を回復するために救い主を約束してくださる神様が、いかに愛と慈しみに満ちておられるかを示すことで、福音を私たちに明らかにしています。