旧約聖書の概要③詩と知恵の書

ロビソン・デイヴィッド
2021年11月28日

 今日は、旧約聖書の概要の第3回として、「詩と知恵」の5つの書物をご紹介します。「ヨブ記」、「詩篇」、「箴言」、「伝道者の書」、「雅歌」の5冊です。

 これらの書物は、主に古代へブル語の詩の形式で書かれていることから、聖書の中でもユニークな位置を占めています。聖書は66冊の異なる書物で構成されており、歴史や法律の書物から、詩や個人的な手紙まで、さまざまなスタイルで書かれています。これらの様々な種類の書物があることによって、私たちは神のことばを様々な方法で理解し、経験することができます。たとえば、歴史書を読めば、神様が長い時間をかけて、世代を超えて約束を守り続けておられることがわかります。律法の書では、神様の正義と正しさについて学ぶことができます。今日は、神様と私たちの関係を生き生きと描いている、詩の書物に注目してみたいと思います。

 これらの詩の書物には、さまざまなトピックが出てきます。詩的な言葉とイメージによって、私たちは神の民の喜びと悲しみ、そして神からの救いを待ち望む気持ちを体験します。また、神の考えやご計画を直接読むことで、より深いレベルで神を理解することができます。私たちは、神の偉大な力と罪人(つみびと)に対する恐ろしい怒りの描写に震え、神がご自分のものと呼ばれた人々への大きな愛によって、喜びと平安に満たされます。

 5つの詩集は、古代の賛美歌を集めたもの、叙事詩、ロマンチックな愛の詩など、書かれた目的やテーマはそれぞれ大きく異なります。いずれも美しい詩的な言葉で書かれており、聖書の他の部分よりも強い感動を与えてるものです。それぞれの書物の目的が大きく異なるため、この5冊の書物をつなぐ全体的なテーマを導き出すのは難しいでしょう。ここでは、それぞれの書物を単独で見ながら、主要なポイントを理解していきたいと思います。

 

ヨブ記

 聖書の中で、詩と知恵の書の最初に収められているのがヨブ記です。ヨブ記は、正義感が強く、心から神に従おうとしていた裕福な男性の物語です。それにもかかわらず、神はサタンがヨブを攻撃することをお許しになり、ヨブの財産と子供を奪い、苦しい病気を与えました。

 物語の中でサタンは、ヨブが神を愛しているのは、神がヨブに富と幸福を与えたからだと主張します。もし富と幸せが奪われたら、ヨブは神に反抗し、神を呪うだろうと主張します。これを受けて、神はサタンにヨブを試すことを許されるのです。

 ヨブは1日のうちに一連の悲劇に見舞われ、すべてを失ってしまいます。ヨブはなぜ自分にそのようなことが起こったのか分からず、神を疑うようになります。

 するとヨブの友人たちが彼を訪ねてきて、彼の苦しみは彼がひそかに犯した何らかの罪の結果に違いない、神の癒しと赦しを受けるためには悔い改める必要がある、と言います。しかし、ヨブは自分が無実であることを主張します。実際、ヨブの苦しみはサタンに試された結果であり、ヨブが罪を犯したわけではありませんでした。この話しの中で、ヨブは何度も神の善良さに疑問を持ち、神から離れてサタンの主張が証明されるかのように思えます。しかし、ヨブは、いつの日か神が自分の直面している苦しみから救ってくださることを信じて、信仰を持ち続けます。

ヨブ記19章25~27節

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。26私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。27この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で、絶え入るばかりだ。」

 最後に神ご自身がヨブに現れますが、神はなぜ苦しめられたのかをヨブに説明することはありません。神はただ、ご自身の力と栄光を明らかにされるのです。神はヨブが疑いを抱いたことについて叱責しますが、同時に友人たちの非難からヨブを守ります。神はヨブが失ったものをすべて回復させ、最後にはヨブは最初の時よりも祝福されるのです。

 ドラマチックな詩的イメージによって、私たちはまずヨブの苦悩と疑いを経験し、次に神のヨブへの直接の語りかけにより、神の素晴らしい力と救いを経験します。ヨブ記が教えてくれるのは、私たちが苦しみの理由を理解できなくても、神は常に善良で恵み深い方だということです。神を信じる者には必ず救いの手を差し伸べてくださるので、私たちは神を信じ、希望を捨ててはいけない、ということです。

 

詩篇

 詩篇は、古代へブル語で書かれた150の詩を集めたもので、神の民イスラエルの賛美歌の役割を果たしていました。礼拝に集まった時には、これらの歌を歌って神様を賛美していました。詩篇は、旧約聖書の全期間を通じて、さまざまな作者によって書かれています。最も古い詩篇の一つである詩篇90は、聖書の最初の5冊を書いたモーセによるもので、詩篇137はそれから約1000年後のバビロン捕囚の時代に書かれたものです。

 詩篇は、旧約聖書に重要な感情的側面を加えています。詩篇の中には、神の民が天地創造における、神の美しさと偉大さに思いを馳せた時に感じた喜びが書かれています。他の詩篇では、神の民が自分の罪を認識して悔い改めた時の悲しみや嘆きが語られています。しかし、喜びの詩篇でも悲しみの詩篇でも、神の民は常に目を上に向けて礼拝し、神に救いと祝福を求めています。

 詩篇全体に共通するテーマは、メシヤによる救いの希望です。詩篇では、神の民が虐げられ、打ちのめされ、神の救いを待ち望んでいる様子がよく描かれています。彼らは、神様が救い主を送ってくださり、その救い主が完全な王として世に正義と平和をもたらす日を待ち望んでいるのです。

詩篇2章7-9節 

「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。8わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまで、あなたの所有として。9あなたは鉄の杖で彼らを牧し、陶器師が器を砕くように粉々にする。』」

 この詩篇は、この世界を受け継ぎ支配するために御子(みこ)を送るという神のご計画を明らかにしています。使徒の働き13章では、使徒パウロがこの詩篇を引用し、死と復活によって神の子であることを明らかにされたイエスにおいて、この詩編が成就したと宣言しています。神の民の希望は、イエスにおいて成就したのです。現代の私たちにも、イエスは救いによる喜びと、苦しんでいる人たちへの慰めと希望を与えてくれます。

 

 次の「詩と知恵の書」は、「箴言」「伝道者の書」「雅歌」の3冊です。この3冊の中心人物はソロモン王で、「箴言」の多くを書き、「伝道者の書」と「ソロモンの歌」のすべてを書いています。ソロモン王は、イスラエルの王の中で最も裕福であり、イスラエルの影響力と権力の絶頂期に統治した王でした。ソロモンは、自分の心が望むものを何でも手に入れることのできる立場にありました。これらの経験は、これらの3つの書物にさまざまな形で反映されています。

箴言

 「箴言」は、へブル語で書かれた訓戒集のようなもので、正しい生き方について説いています。最初の9章では、将来良い王になるための生き方をソロモンが息子に説いた、一連の箴言が書かれています。ソロモンは息子に、人生で最も価値のあるものは知恵であり、真の知恵は万物を創造された唯一の真の神を恐れることから始まると教えています。箴言1章7節には、「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 」とあります。

 真の知恵と知識は、神がどのようなお方であるかを正しく理解することから始まります。神は、宇宙のすべての力を持つ創造主で、無限の知識を持っておられます。神はあまりにも力強く知恵深いので、私たちは神に対してある種(しゅ)の恐れを抱くことが適切であり、神を敬い、従うことはすべての人の義務です。しかし、この恐れは、神が最終的に私たちを祝福することを望んでおられることを学ぶことによって、信頼へとつながります。

箴言3章5-6節
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

 私たちはしばしば、人生において難しい決断を迫られることがあります。自分を守るために、道徳的に問題のあることをしなければならないと感じることもあるでしょう。しかし、真の知恵は、私たちを守ってくださる神を信頼し、何があっても正しいことをするように導きます。

 

伝道者の書

 次の「伝道者の書」は、ソロモンの人生の終わり頃に書かれました。ソロモンは、人生の多くの時間を、巨額の富を使って快楽と知識の両方を追求することに費やした人でした。しばらくの間、彼は神から目をそらし、この世のものに満足と意味を見出そうとしたようです。しかし、この世界のすべての良いものを経験した後、ソロモンは深い失望を覚えるのです。それが「伝道者の書」の冒頭の詩に反映されています。

伝道者の書1章2節

「空(くう)の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」

 ソロモンは、お酒と女性に喜びを求めたと書いています。また彼は、自分の富を使って、自分のために大きな宮殿を建てようとしました。しかし、それらの快楽は空虚で無意味であることがわかったのです。次に彼は、学問を追求することに意味を見出そうとしました。彼は科学や哲学を学び、世界で最も賢い人物(じんぶつ)として知られるようになりました。しかし、彼は知識を追求することも結局は無意味であると結論づけたのです。どれも一時的には楽しかったが、最後には失望と絶望が待っている。ソロモンは、この人生に意味を見出すためには、私たちを超えた存在である神に目を向けなければならないと悟りました。

伝道者の書3章11~14節

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。12私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。13また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。14私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かを付け加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。」

 ソロモンは、人間の計画はすべてやがて失敗するが、それに対して神の計画は成功し、永遠に存続すると悟りました。このように、人がこの世で望むことができる最善のことは、神に従い、神が与えてくださる賜物に満足することであると教えているのです。

 「伝道者の書」は、私たちに憧れと不満足感の両方を与える書物だと思います。私たちは、いつかは死ぬという厄介な事実を突きつけられます。また、どんなに成功しても、真の満足を得ることはできない。「伝道者の書」は、私たちの現在の生活が無益であることを明らかにすることで、この世の楽しみを超えて、真の満足と意味を見出すために、代わりに神に希望を抱くように私たちを誘う書物です。

 

雅歌

 詩集の最後は「雅歌」です。これは、聖書の中でも最も意外性のある書物の一つではないでしょうか。男女の恋愛に焦点を当てているからです。「雅歌」は、男女間の恋愛や性欲を、ドラマチックに、時には驚くほど直接的なイメージを用いて描いています。「雅歌」から教えられることの一つは、このような深い欲望は恥ずかしいものや罪深いものではなく、適切な状況で経験する限り、神からの素晴らしい祝福であるということです。この書物は、女性とその婚約者が、結婚式を前にして、お互いへの愛と欲望を交互に表現する詩の形式をとっています。

雅歌2章3-7節

「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです。4あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした。5干しブドウの菓子で私を力づけ、りんごで元気づけてください。私は愛に病んでいるからです。6ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。7エルサレムの娘たち。7私は、かもしかや野の雌(め)鹿(じか)にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

 この箇所では、女性が情熱的な言葉を豊かに使って、婚約者への愛を語っています。この女性は、婚約者と一緒にいること以上の喜びはないと感じています。それだけでなく、彼女は婚約者を喜びと命の源(みなもと)と考えているいようです。彼女の愛はあまりにも強く、彼女はそれを「病(やまい)」と表現しています。婚約者のそばにいることがあまりにも刺激的で、そのために弱くなってしまっているかのようです。他の箇所では、男性の女性に対する愛と欲望が、同じような強い表現で記されています。しかし、7節では、この愛には適切な時と場所があることがわかります。

雅歌2章7節

「私は、かもしかや野の雌(め)鹿(じか)にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

 男女間の愛は、良い物で、正しい物ですが、神はこの愛を適切な仕方で表現されるように創造されました。急ぐべきではありませんし、結婚して初めて最も深い親密さを得るというのが神のみこころです。聖書は、結婚前に性的な関係を持つことで愛を急ごうとする誘惑に負けると、精神生活に深刻な結果をもたらし、しばしば人間関係にも深刻な結果をもたらすと教えています。しかし「雅歌」では、男女間の愛と性的な親密さが、適切な状況においては神に祝福された素晴らしいものであることを学びます。

 

 この5冊の詩集には、聖書全体の中で最も美しいとされる箇所がいくつもあります。それらは、現在の人生と、私たちを創造された神についての深遠な真理を示しています。私たちがどのような状況に直面していても、これらの書物の中には、知恵、慰め、洞察を見出すことができるでしょう。私たちを取り巻く世界が、不道徳な楽しみを求めたり、問題に目を向けるように誘惑する時、「詩と知恵」の書物は、私たちの目を天に向けさせます。何よりも素晴らしい存在であり、困った時には私たちを救ってくださる神、そしてご自分を求める者に祝福を注いでくださる神に、私たちの目を向けさせてくれます。