今日は、キリスト・イエスの誕生を待ち望むアドベント(待降節)の2週目です。私たちは、イエス様の誕生を思い起こすことで、神様がどのようにして私たちを救うために来てくださったかを思い起こします。 聖書によれば、私たちは皆、かつて主なる神から切り離された迷子のようでした。しかし、最初のクリスマスの夜、主はそのひとり子をこの世に送り、私たちと同じ人間として生まれさせ、私たちを救い出してご自身のもとに導くために送られたのです。クリスマスの日、私たちは希望と救いの誕生を祝います。罪と死からの解放が約束されていることを祝います。
この待降節の間、私たちはキリストの誕生までのイスラエルの歴史を思い出します。神の民は何千年もの間、解放を待ち望んでいました。
今日は、旧約聖書の概要シリーズの最後に、預言書を見ていきます。このアドベントの時期にこれらの預言書を見ていくことは、とてもふさわしいことだと思います。旧約聖書の最後の16冊の本を通して、神様はご自分の民に救い主を送ることを繰り返し約束されています。イスラエルの人々は、何百年にもわたる苦難と疑念に耐えながら、これらの預言書に記された神の約束に希望を託していました。
今日は、これらの書物の歴史的背景をよりよく理解するために、聖書に出てくる順に見るのではなく、年代順に見ていくことにします。そうすることで、これらの書物に共通する多くのテーマが見えてきます。それは、「神は公正である。神は憐れみ深い。神は主権者である。神はご自分の民に救い主を送られる。」といった内容です。
ヨナ書
ヨナ書は、おそらく預言書の中で最も古く、紀元前800年頃に書かれたと言われています。その頃、イスラエル王国は2つの王国に分かれていました。南のユダ王国では、ダビデの子孫が王として仕えていました。ユダの首都はエルサレムでした。北のイスラエル王国は、ダビデの孫であるレハブアム王に反抗し、政治的・軍事的指導者たちを王としていました。北王国の首都はサマリヤでした。
しかし、ヨナはイスラエルにもユダにも送られませんでした。その代わりに、彼はアッシリヤ帝国の首都ニネベに送られたのです。神様は、自分たちの悪い行いに対する罰として、まもなく神様の裁きを受けることになると、アッシリアの人々に警告するようにヨナに命じられました。アッシリアはイスラエルにとって最も強力で、嫌われていた敵の一つであり、ヨナは神がニネベを罰するのを見たいと願っていました。これは聖書の中でも一番有名な物語の一つですが、ヨナは神に背いてニネベから船出し、大きな魚に飲み込まれます。海の底で三日間過ごした後、神は彼を無事に陸地に送り届けます。これは、イエス様が墓の中で三日間過ごされた後、死からよみがえられることを象徴したものでした。ヨナはニネベの人々に、神がまもなく裁きを下されると警告しましたが、彼の失望をよそに、ニネベは悔い改めて神に許しを請い、その結果、神はニネベの人々に憐れみを与えられました。この話しから、神様が、心から悔い改めて神に立ち返る者は誰でも赦してくださる、慈悲深いお方であることを学ぶことができます。
アモス書
同じ頃、預言者アモスは南のユダ王国で、ホセアは北のイスラエル王国で宣教していました。
アモスの記録は、神がまもなく神の民の敵をその邪悪さゆえに裁かれるという預言から始まります。しかし、それは同時に、イスラエルとユダの人々への警告でもありました。神は彼らを聖なる民として選び、神に仕え、世界の模範となるようにされました。そして彼らが正しく生きるならば、彼らを祝福し、敵から守ってくださるという特別な契約を彼らと交わされました。しかし、イスラエルもユダも、神様と交わした契約を破り、周囲の国々の神々を礼拝するようになってしまいます。神の民は、貧しい人々を虐げ、暴力をふるい、性的不道徳に走ったのです。アモスは、神の民であっても、罪を犯す者には躊躇なく罰を与えられると警告します。神は義であり、罪を犯した者を罰せずにはおかない、と伝えます。
ホセア書
ホセア書には、北王国イスラエルに対する一連の預言が記されています。ホセアは、イスラエル王国が、夫を捨てて売春婦になった妻のようなものだと、生々しいイメージを使って警告しています。イスラエルの人々は、自分たちを偉大な国にしてくださった神を捨て、代わりに他の多くの神々を礼拝するようになっていました。しかし、ホセア書では、神がこの道を踏み外した民に対して、忍耐と愛を持っておられることがわかります。神は彼らに、偽りの神々を捨てて、神に忠実に仕えるように呼びかけるのです。すぐに見捨てるのではなく、悔い改めるための時間を与え、彼らを連れ戻す気があることを伝えています。
私たちはここからも、神様の慈しみ深さや、情け深さ、怒るのに遅く愛に満ちたお方であることを学ぶことができます。
その後、一世代を経て、預言者ミカとイザヤがユダで宣教を開始しました。
イザヤ書
イザヤは偉大な預言者の一人として知られています。イザヤの宣教は、ユダが主から離れ始めた転換期に行われました。その頃、北王国イスラエルはすでに神を捨てていましたが、ユダの人々はまだ信仰にしがみつこうとしていました。イザヤは、神がまもなく北王国のイスラエルの人々に裁きを下し、彼らが完全に滅ぼされることを預言しました。また、イザヤは、ユダもやがて神を捨て、バビロンに連れ去られることを預言しています。しかし同時にユダに対しては、神様は希望のメッセージを持っていました。彼らは捕囚の身となりますが、後に神様は彼らを救い出し、連れ戻してくださることになるのです。
さらに素晴らしいことに、イザヤ書には、神様がいつの日か、しもべとして苦しみ、王として治める救い主を送ってくださるという預言が記されています。
イザヤ53章5-6節
「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」
この箇所では、救い主は神の民の罪のために苦しんで死に、その苦しみによって神の民に赦しと癒しをもたらしてくださると預言されています。そして、よみがえって永遠の王として支配するというのです。
イザヤ書11章1-4節
「1エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。2その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。3この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、4正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。」
ここには、この王が、イスラエルの最も偉大な王であるダビデの子孫であることが預言されています。神は主権者であり、民の罪も、神が民を救済する計画を止めることはできません。
ミカ書
ミカ書には、イザヤ書とよく似た預言が書かれています。ミカも、来るべき王について語り、王がユダのベツレヘムで生まれることを預言しました。
ミカ書5章2節
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
ミカは、この救い主が来てはじめて、神の民が真の意味で神を敬うことができることを明らかにしました。 ユダで信仰を持っていた人々は皆、このような救い主を送ってくださる神様に期待を寄せました。
北王国の滅亡に関するイザヤの預言はすぐに成就しました。神は何世代にもわたって北王国に預言者を送り、悔い改めて神に立ち返るように呼びかけていましたが、彼らはそれを拒否し続けました。裁きのために神はアッシリア帝国を起こしてイスラエルを征服させ、捕虜にしました。神様は、邪悪な国アッシリアを使って、邪悪な国イスラエルに裁きを下されたのです。アッシリアは暴力的な偶像崇拝の帝国であり、征服と殺戮を繰り返してこの地域の人々を恐怖に陥れました。神がアッシリアを起こされたにも関わらず、アッシリアもまた、主を認めませんでした。そこで神は、アッシリアをも、罰せずにはおかれませんでした。
ナホム書
ナホムは、アッシリアの首都ニネベに対する裁きの預言を記録しています。ナホムは、ヨナの続編と言うことができると思います。ヨナはナホムの約100年前に、この同じアッシリアに遣わされていました。ヨナの時代には、彼らは悔い改め、一時的には神の怒りから免れましたが、その後アッシリアとその首都ニネベは、邪悪な道に戻ってしまいました。神はナホムを通してアッシリア帝国が滅びることを宣言し、彼らの高ぶりと暴力を罰することを宣言されました。ここから私たちは、神がすべての国の主権者であり、ご自身の目的が成就するようにすべての出来事を導かれる方であることを学ぶことができます。神は、罪を犯した者が罰せられないことを許されないのです。
この大きな国際紛争の時代に、小さな王国であるユダは、国家として生き残るために必死でした。ユダは、自分たちもいずれ北王国と同じ運命をたどるのではないかと恐れていました。周りの国々が栄えたり滅びたりしているのを見ても、主がすべての出来事を最終的に治めていることを忘れていたのです。
ゼパニヤ書
この時期、神は預言者ゼパニヤ、ハバクク、そしてエレミヤをユダに遣わし、彼らの救いの唯一の希望が主にあること、主に立ち返らなければ北王国イスラエルと同じ運命を辿ることになることを警告しました。
ゼパニヤ書では、神はご自分の民に対して、心を込めて神に立ち返らなければ、彼らも裁きを受けることになると訴えています。
ゼパニヤが預言したのはヨシヤ王の時代です。ヨシヤ王は、神に忠実に仕えようとした最後の良い王でした。ユダが神様に立ち返る最後のチャンスだったと言えます。しかし、ヨシヤ王が亡くなると、ユダの人々は再び主から離れていってしまうのです。
ハバクク書
ハバクク書は、この時代に書かれたものです。その中でハバククは、自分の民の罪だけでなく、神がバビロンを起こしてユダを罰すると言われたことにも心を痛めていました。ハバククは、神が邪悪な国を使って他の国を罰するのはおかしいと神に訴えます。神は、アッシリアが目的を果たした後、その邪悪さを罰したように、バビロンをも罰すると答えます。ハバククは、主のすべての道を理解できなくても、主を信頼するようになります。
エレミヤ書
エレミヤ書には、神がまもなく彼らを裁かれること、そしてその裁きを妨げるものは何もないことを伝える、ユダへのメッセージが書かれています。神は彼らに数え切れないほどの悔い改めの機会を与えてきましたが、今やその機会は過ぎ去っていました。バビロンはエルサレムを占領して破壊し、ユダの人々を捕虜にします。神の民は、神と交わした契約を放棄し、もはや神の民と呼ばれるに値しませんでした。
しかし、神はエレミヤを通して、いつの日か神の民と新しい契約を結ぶことを宣言されます。
エレミヤ書31章31-33節
「31見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。33これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
この新しい契約は彼らの心に変化をもたらし、永遠に主に従うことを可能にするというのです。この新しい契約は、信仰に基づく神との関係を確立するイエス・キリストを遣わすという約束でした。 私たちがここから学べることは、神が正しく聖なるお方であり、神に罪を犯す者を必ず罰するということです。しかし同時に、神の民が神に忠実でない時でも、神はその民に忠実であることも学ぶことができます。
哀歌
「哀歌」もエレミヤが書いたと考えられています。この本には、エレミヤが人生の終わりに目撃した、エルサレムの破壊についての嘆きが書かれています。しかし、エレミヤは神の裁きを目の当たりにしながらも、神が将来的に民を回復するという約束を守ることを信じて、神の憐れみを讃えています。
ダニエル書
ダニエル書には、バビロンに連れていかれたユダの人々がどうなるかが書かれています。ダニエルは主に忠実だったので、神は彼をバビロンで大きな名誉と影響力を持つように引き上げられました。ダニエルを通して、バビロンの王ネブカデネザルでさえ、ダニエルの神がすべてを支配する真の主であることを認めるようになります。また、ダニエルは多くの国の運命を預言しており、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国の勃興も預言しています。またダニエルは、人の子、つまりイエス・キリストの到来も預言しました。
ダニエル書7章13~14節
「13私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」
この人の子は、永遠にすべての国を支配する権威を神から与えられるということが分かります。イエス様が来られたとき、イエス様はご自分がダニエルの預言した人の子であることを明らかにされました。神は、国が栄えたり滅びたりするのをお許しになりますが、最後には、イエス様を正しい世界の支配者として永遠にお立てになるのです。
オバデヤ書とヨエル書
オバデヤ書とヨエル書もこの時期に書かれたと考えられています。オバデヤ書では、神の民の敵であったエドムの国に対して、神が裁きを宣言しています。エドムは、ユダの人々が捕虜になるのを見て喜んでいました。しかし、神は罪を犯した者を罰せずにはおかず、エドムも滅ぼすと宣言されたのです。
ヨエルは、未来に訪れる最後の審判の日を預言しました。主が来られて、すべての不義を終わらせ、主を拒む者を永遠に裁かれる日が来るというのです。私たちは、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、国籍を問わず、神を拒む者はすべて、神の裁きを受けることになると学びます。しかし、悔い改める者には、神は赦しを与えてくださいます。
エゼキエル書
捕囚の時代、ユダヤ人の多くは希望を失い、神に仕える理由を見失っていました。そんな中、エゼキエル書には、神の力と未来への計画を示す一連の預言が記されています。エゼキエル書では、神の民が神に仕えていなくても、神はご自身の御名のために、彼らを回復させてくださると宣言されています。たとえ神の民が霊的に死んでいて命がないとしても、神は彼らを目覚めさせ、新しい心を与え、神に仕えるようにされるのです。神は、神の民の罪深さに対しても主権を持っておられます。選んだ人に新しい命を与え、ご自身のために、ご自身を礼拝する人々を起こされるのです。
ハガイ書
ハガイ書が書かれたのは、喜びと恐れの両方の時代でした。神はご自身の民への約束を守り、彼らをバビロンから帰還させましたが、帰って来ると今度は敵に囲まれ、守ってくれる王もいない状態でした。ハガイは、エルサレムにいるこの帰還した亡命者たちのもとに送られ、神の神殿を再建するように勧めました。この帰還した亡命者たちのリーダーは、ゼルバベルという名の総督でした。ゼルバベルはダビデの子孫で、もしユダが独立した王国のままであったならば、王になっていた人でした。しかし、バビロンがユダを征服した後、ユダには彼らを支配する王がいなくなっていました。ハガイは、神がまだダビデの子孫を尊ばれていること、そして、いつの日かダビデの子孫の一人を王として永遠に立てるという約束を実現されると人々に伝えました。
ゼカリヤ書とマラキ書
ゼカリヤ書も同様に、帰還した亡命者たちに向けて書かれたものです。ゼカリヤは、いつの日か神が新しい王を遣わして神の民を支配し、敵から解放することを預言しました。
年が経つにつれ、帰還した亡命者たちは、再び罪と神への無関心のパターンに陥り始めます。多くの人々は、約束された救い主が来るという希望を失っていました。神は最後の預言者マラキを遣わし、神の民に真の心で神に仕え、希望を捨てないようにと伝えます。そして、世界を義に導くために、王と救い主を送ると宣言されます。
マラキ書3章1節
「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」
このように、旧約聖書は待つことで終わります。神の民が落胆し、疑いながらも、神が救い主と王を遣わすという約束を守ることを待っているところで終わります。その400年後、神様はその約束を守り、イエス様がお生まれになりました。イエス様は、旧約聖書の預言者たちの希望をすべて実現されました。イエス様だけが、神の民の心に真の誠実さをもたらすことができるお方でした。イエス様だけが、神を愛し、神を敬うように、神の民を導くことができるお方でした。イエス様だけが、神の民をその罪から救い出すことができました。イスラエルの希望であったイエス様は、今や全世界の希望であることも明らかにされました。イエス様は、ご自身が遣わされたイスラエルの人々だけでなく、イエス様を心から信頼し、自分の罪を悔い改めるすべての人に、赦しと救いを与えてくださるのです。