神様の導き方

使徒の働き16:1-10

ロビソン・デイヴィッド
2020年09月 6日

2003年に、私は東京にあった妻の母教会で、夏の間英語を教えるために初めて日本に来ました。その経験を通して、日本のクリスチャン人口がとても少なくて、教会の働き人も少ないことを初めて知りました。しかしその短期宣教旅行の後、日本に戻る予定はありませんでした。

 代わりに、アメリカで大学を卒業して、IT技術者として、キャンパスクルセードというクリスチャンのNPO団体の事務局で働き始めました。ある年、勤務先の短期宣教旅行コーディネーターに、日本に短期チームを送りたいが、受け入れ先になってくれそうな教会を知らないかと聞かれました。それで、妻の母教会を紹介して、チームを送るようになりました。

 キャンパスクルセードの従業員の一つの利点が、年一回、短期宣教旅行に参加するために2週間の休暇が与えられるということでした。私もその制度を利用して、2004年に短期チームに加わって日本に行きました。同じように2005年と2006年にも日本に行って、妻の母教会と協力して働きました。日本に行くたびに、神様が私に、短期宣教だけではなくてフルタイムで日本へ行く召しを与えておられるかどうかを考えましたが、それが神様のみこころかどうか全く分かりませんでした。もし神様が私が日本へ行くことを望んでおられるなら、みこころを示してくださいと祈り始めました。

 しかし、特に何も起こりませんでした。2006年に、4回目の短期宣教旅行で日本に行った時、妻に将来日本で働く希望があるのかと聞かれました。その時私たちはただの友達でしたが、そのような質問をしたのは私に好意があったからだと思います。

私はまだ考え中だと答えました。すると妻に、こんなに何回も短期宣教で日本に来ているのにまだ分からないなら、これ以上何の要素があれば決め手になるのかと聞かれました。私は、それは確かにそうだなと考えさせられました。

 その時まで私は、もし神様が私にはっきり日本へ行けとおっしゃるなら日本に行こう、と考えていました。しかし、妻と話した後、考え方が変わって、神様にこういう祈りを始めました。神様、あなたはすべてのクリスチャンに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命令されました。また私に、日本の働き人の少なさを見せてくださいました。私は日本へ行きます。もし神様のみこころでないなら、日本へ行く道を閉ざしてください。そのような祈りをしながら、日本へ行く準備を始めました。そのあと、神様は私を止めることをせず、私が日本へ行くためにいくつもの扉を開いてくださいました。

 今日の箇所の中で、使徒パウロも、神様のみこころを知るために同様のことをしています。
 使徒パウロはシラスと共に第二回宣教旅行に出かけていきました。パウロとシラスの最初の目的は、パウロが第一回宣教旅行の時に開拓したガラテヤの教会を訪ねて励まし、エルサレムの教会会議の結果を伝えることでした。ガラテヤは現在の東トルコにあったローマ帝国の州でした。

 しかし、その初めの目的が達成された後、パウロは次の働きに進もうとしました。それはガラテヤの隣のアジアに行って、新しい所で初めて福音を伝える働きでした。アジアは現在の西トルコにありました。
その地方はローマ帝国の中で、貿易にとって重要な地域でしたので、もしそこに教会ができたら、アジアに住んでいた人だけではなく、ローマ帝国全体にわたって、大勢の人が福音を聞く機会を得ることになります。実はその後、パウロの第三回宣教旅行の時に、パウロはアジアにあったエペソで二年間福音を伝えて、教会を開拓しました。しかし、この第二回宣教旅行の時には、聖霊はアジアで福音を語ることを禁じられたのです。
使徒の働き16:6

 これは不思議なことでした。アジアでみことばを語るのはとても良いことのはずなのに、神様にはその時、アジアではなくて別のところで福音を伝える計画がありました。神様がパウロに理由を説明されることはなく、なぜかは分かりませんでした。ただ、アジアでみことばを語ることを禁じられたのです。それはパウロにとって、とてももどかしいことだったかもしれません。神様はパウロに、異邦人に福音を伝える召しを与えられたのに、アジアで異邦人に福音を伝えるというとても良いことを、神様が禁じられたからです。

 これが当時のパウロにとってはとても残念なことに見えたと思いますが、実は、それはとても良いことでした。神様は完全な知識を持っておられるので、そのタイミングでアジアで福音を語るのは良くないと分かっておられました。ですから、もしパウロがその時アジアに入って、福音を伝えていたら、悪い結果になっていたはずです。しかし、神様は恵みによってパウロを守って、アジアに行くことを禁じられました。

 このことから分かることは、私たちが真実に神様に従おうとするなら、神様はご自分のみこころを表して、私たちを間違いから守ってくださるということです。

 しかし、神様はすぐにはパウロにみこころを表してくださいませんでした。この時のパウロはどうするのが正解だったでしょうか。宣教旅行を終わりにして母教会に戻って、神様がみこころを表してくださるまで待つのが正解でしょうか。パウロがこの時実際に何をしたのかを見てみましょう。

使徒の働き16:7

 神様が西にあったアジア州に行くことを禁止されたので、パウロは北にあったビティニア州に行こうとしました。しかしイエス様の御霊はそれも許されませんでした。パウロには、神様の命令に従って異邦人に福音を伝えたい、という強い気持ちがありました。だから、神様がアジアで福音を語ることを禁止されると、パウロはビティニアで福音を伝えようとしました。パウロはとにかくどこかで福音を伝えることを心に決めていたようです。神様がみこころを表してくださるまでじっと待つのではなくて、色んなところで福音を伝えようとしました。次に、使徒の働き16:8節を見て下さい。

 ミシアはビティニアとアジアの間に位置していた地方でした。神様が北にあったビティニアに行くのを許されず、西にあったアジアに行くのも許されなかったので、パウロはその中間の地域に行こうとしていたのです。でも結局どこでも福音を伝えることをはばまれて、最後に、地中海のトロアスという町に着きました。トロアスはパウロにとって、最後にたどりついた行き止まりのように見えたかもしれません。

 このパウロの行動を見ると、パウロがちょっとせっかちで忍耐のない人のように見えるかもしれません。むしろ、じっくり待って、休んで、祈る方が良かったのでしょうか。
しかし、神様はパウロのような信仰を喜ばれる方だと思います。パウロは福音を伝えたくてしょうがなくて、福音を伝えることができるまでは止まるつもりはありませんでした。神様が自分を導いてくださると信じて前進していったのです。神様は、宣教旅行の最初からパウロを導いておられました。その導き方は、パウロが違う所に行くことを許さないという方法でした。その結果、パウロは港町のトロアスにたどり着きました。それはまさに神様がパウロを導かれていた場所でした。
使徒の働き16:9-10

 ここで、遂に神様がパウロにみこころを表してくださいました。それは、初めてヨーロッパに入って、マケドニアで福音を宣べ伝えることでした。ガラテヤからマケドニアに行くために一番早い道は、まずトロアスに出て船に乗って、海を渡ることでした。神様は常にパウロを導いておられたのです。また、神様のご計画は、アジアやビティニアで福音を伝えるというパウロの計画より素晴らしいものでした。神様のご計画は、新しい大陸に福音を持って行って、ローマ帝国の中心で福音を宣べ伝え、教会を建てることでした。パウロがあきらめないで神様のみこころを求め続けた結果、福音がヨーロッパに伝えられました。
 この箇所から二つのことが分かると思います。

 まず、神様は多くの場合、私たちにご自分のご計画のすべてを明らかにされないということです。神様は、パウロが宣教旅行に出発する時には、ご計画の一部だけを表されました。それは、ガラテヤの教会を励ますことでした。
そのご計画の目的は異邦人に福音を伝えることでしたが、神様はご自分のご計画の中心的な部分を明らかにしてくださいませんでした。その結果、パウロは神様に信頼して、大事な情報を知らないまま出かけて行かなければならなかったのです。

 神様は今でも、多くの場合このように私たちを導かれると思います。この宮古にある教会開拓も、そのような状況だと感じています。私たちは、神様が盛岡教会に対して、宮古で教会開拓する召しをはっきり示してくださったと確信しています。また、神様はみことばの中で、ご自分の世界に対する目的も示してくださっています。それは、あらゆる人々が福音を聞いて、救いを受けることです。しかし神様は、初めから具体的に、宮古で教会を開拓するためのすべてのステップを教えてはくださいませんでした。代わりに、私たちがご自分を信頼して開拓の働きを始めることを求められたのです。私たちは、祈りとみことばの学びを通して、また神様が下さった賜物を用いながら、神様のみこころを一歩一歩探りながら進んでいくのです。

 二つ目に分かることは、神様がご自分のご計画をすべて示してくださるまで待たずに、もうすでに明らかになっていることから始めた方がいいということです。パウロは間違いを恐れませんでした。パウロの考えは、神様に従おうとすれば、神様が導いてくださるはずだという確信に基づいていました。一つのことをやってみて、それがダメだったら別のことを試しました。それもまたうまくいかなくても、パウロは立ち止まらずに前進し続けました。やっと神様がみこころを表してくださると、パウロはすぐに従いました。何度も挫折した経験によって、パウロの信仰と神様に従う希望は深くなっていったと思います。

 神様は私たちにも、パウロのようにご自分に従うことを求めておられると思います。神様はもうすでに、みことばの中でご計画のいくつかの部分を表してくださいました。しかし、そのいくつかのことを、私たちの様々な状況の中で具体的にどのように成し遂げることができるのか、すべてのステップが明らかにされているわけではありません。

 神様は私たちを、みことばの中で何に召されたでしょうか。神様はすべてのクリスチャンを、義に成長するようにと召されました。また、祈りとみことばの学びにも召されました。クリスチャンの兄弟姉妹を励まし愛すこと、隣り人に福音を伝えて、教会を建て上げ、世界宣教に参加することにも、私たちは召されました。

 同時にこれらすべてのことをするのは無理だと思うかもしれませんが、一気にすべてをしようとする必要はないと思います。私たちが神様に従うと決めて、神様が表してくださった召しの中から一つのことを選んで、自分のすべてを持ってその召しに従うなら、パウロのように神様の栄光を表すことができます。そうすれば、神様がパウロを導いてくださったように、私たちのことも導いて、みこころを示してくださるのです。大切なことは、私たちが神様に従う最初の一歩を踏み出すことなのです。